●12月27日(日)礼拝メッセージ「聖霊と火とのバプテスマ…主を知ることを切に追い求めよう」 

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11~12)

 2020年を振り返るとすれば、誰もが「新型コロナウィルスの年だった」と口をそろえて言うにちがいありません。この問題が連日報道されるようになり、深刻さの度が増してくると、教会の牧師さんたちは、この問題をキリストのからだなる教会としてどのように受け止めたらよいのかを考えるようになりました。なぜなら、感染拡大防止と、それまで集まることを奨励してきた教会の立場は逆行するからです。例えばマタイ18:20には「 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあり、ヘブル10:25にも「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあって、このウィルスの問題と教会の働きに対し、どのように折り合いをつけるべきか、考えないわけにはいきませんでした。ですから、これまで、多くの牧師さんから、この問題に対するメッセージが発信され、私も多少なりとも、この問題に対して語ってきました。

そういう中で、最近、BFPアメリカ事務局のNW氏のメッセージが日本の広報誌に載っていて、私も注目しました。題は「打ち場(脱穀場)の恵み」です。その記事の最初のあたりで、創世記のヨセフがエジプトで大臣となり、父ヤコブの死後、ヨセフを恐れる兄たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:20)」と語ったことばを紹介し、そのあと、ヨセフのそれまでの試練や苦難を「打ち場(脱穀場)の体験」と言っています。打ち場では脱穀がされ、善と悪、真理と偽物、有益なものと無益なものを分ける象徴と言えるとのことです。そのほか、ダビデが人口調査したとき試みを受けたあとアラウナの打ち場(第二サムエル24:16)でそれが止んでいます。ボアズとルツの記事のクライマックスも打ち場(ルツ3:6)でした。

そして、冒頭のマタイ3章のみことばに戻りますが、バプテスマのヨハネのことばです。打ち場には裁きの場という側面がある一方、イエス様による聖霊と火とのバプテスマという祝福もあるのです。また、ルカ22:31~32では、イエス様がペテロに「22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われ、打ち場でふるわれて信仰を失わないように、とも言っています。

そして、NW氏は、次のようにまとめています。「私たちが実際の打ち場を体験する時代にいるのであれば、それは後に起こるさらに偉大な事柄への準備のためです。つぼを新しい油で満たし、神の打ち場に入るため、精神的、霊的に準備をしなくてはなりません。そこで『買戻しの権利のある親類』に出会い、交わるのです。この打ち場の体験は、神が私たちに備えてくださった素晴らしい祝福とあがないの時となるでしょう。」、最後に私から、このメッセージの理解を助けるためにホセア書6:1~3も読まれることをお勧めします。

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