●2021年1月3日(日)礼拝メッセージ「実を結ぶ一年となるために」 

 2021年を迎えました。これまでも、当教会では「実を結ぶ」という目標は掲げてきましたが、「実を結ぶためにこうしよう」という部分が弱かったと思います。そこで、一年の初めにあたり、ヨハネ15:1~15から、「実を結ぶ一年となるために」という題で学びましょう。

まず、ヨハネ15章1節と2節と5節をまとめますと、イエス様はまことのぶどうの木であり、天の父が農夫です。そして、そのぶどうの木に連なる枝がイエス様を信じた一人一人です。その枝が実を結ぶためには、①そのまことのぶどうの木にしっかりととどまること。②そして、農夫である父の刈り込みを受け入れること、その2点です。

①まことのぶどうの木にとどまるとは…9~10節を見ますと、「イエス様の愛の中にとどまる」、また、愛の中にとどまるとは「イエス様の戒めを守る」ということです。「戒めを守る」というと、堅く感じますが、マタイ11:30でイエス様は「わたしのくびきは負いやすい」と言っておられます。結局「イエス様にとどまる」とは、キリストのからだなる教会に連なり、みことばと祈りに励み、みこころを行なって生きるということでしょう。

②次に、天の父の刈り込みを受け入れるとは…6節には、イエス様にとどまっていないと、枝のように投げ捨てられ、枯れて燃やされてしまう、とあります。つまり、それは、刈り込みに嫌気がさして、枝が木から離れた結果であると思われます。刈り込みというのは、聖霊様の御声を聞いて従い、整えられるということでしょう。詩篇95:7~8には「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。大事なことは、主の声、聖霊様に聞き従うということです。

パウロは、ピリピ3:12で「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と言っています。パウロのように完成された人が不完全というのなら、私たちはどうなるのでしょう。確かに、私たちは不完全で、整えられる余地があります。「なくて七癖」とはよく言ったものです。他人から見ると顰蹙(ひんしゅく)を買うような、自分ではなかなか気づかない欠点があるものです。もちろん、主は、そのままの私たちを愛してくださっていますが、霊的に成長しなくてよいということはありません。ローマ12:2には「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。主の喜ばれることを行ない、喜ばれないことを止める、ということです。

そして、主は、私たちが、実を結ぶことを願っておられます。7~8節によると、私たちが祈り、その祈りがかなえられることによって、天の父は栄光を受けられるのです。ヤコブ5:16には「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とあり、また、ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。私たちが聖められ、義人とされて(もちろん、完全にされているのではなく、イエス・キリストの十字架の救いと執り成しの故にです。)祈るとき、その祈りがかなえられるということです。その結果、霊的な実を結ぶということです。

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