●2021年9月5日(日)礼拝メッセージ要旨「慰めてくださる神」 

第二コリント7:1~16からです。まず、この章の背景です。パウロはコリント第一の手紙を書き、それをテモテに託して彼を派遣しました。しかし、その後、思うような成果を得られません。その後、第一と第二以外の、もう一つの手紙を書き、今度はテトスに託します。その手紙は非常に厳しい内容でしたので、パウロは、その手紙の反応が気になりました。そこで、自ら、マケドニヤに向かって行きました。そして、そこでテトスに会い、慰めを受けました。さらに、テトスから、その手紙に対するコリント教会の反応を聞いて、更なる慰めを受けるのです。今回もポイントを三つ上げていきます

①「慰めてくださる神」…聖書の神は、昨日も今日も変わることなく、私たちを愛し、あわれみ、慰めて下さいます。創世記28章で、ヤコブは兄エサウに変装し、父イサクから長子の特権の祝福を受けます。それを知ったエサウはヤコブを憎み殺そうとします。母リベカは、そのことを知ってヤコブにハランのラバンのところに逃げるよう勧めます。ヤコブは、兄から命を狙われ、一人で叔父の所に行こうとしています。心細かったに違いありません。途中、石の枕で夜を明かそうとしていると、夢で神が彼に現われます。天から梯子が立てられ、み使いが上り下りしています。そして、主がヤコブに、彼の子孫が多くなり、地上のすべての民族は彼の子孫によって祝福され、また主が彼とともにあり、彼を守り、決して捨てない(創世記28:15)、と言われます。このときヤコブはどれほどの慰めを受けたでしょうか。もう一人、第一列王記18~19章に登場するエリヤです。エリヤは450人のバアルの預言者たちに勝利した後、アハブ王の妻イゼベルから命を狙われます。彼は恐れて、立ち去り、ベエル・シェバからさらに進み、えにしだの木陰にすわり「もう十分です。私の命を取ってください。」と言います。そして、そこで寝ていると、み使いが現れ、パンと水を持ってきて、彼に食べさせます。そして、40日40夜費やして神の山ホレブに行き、そこの洞穴に入ります。そこで、エリヤは神の声を聞き、次のすべきことを告げられるのです。今日も、神は神の民を特別に扱い、特別な慰めを与え、励まし、神のご用のために用いようとされるのです。

②「神のみこころに添った悲しみ」…パウロによる厳しい手紙に対して、コリント教会の人々は、悲しんだけれども神のみこころに添って悔い改めました。11~12節では、「あの問題、処罰を断行、悪を行なった人(加害者)、被害者」などの言葉が使われています。いったい具体的に何があったのかは分かりませんが、何か事件に近いようなことがあったのでしょう。しかし、そこで、しかるべき処罰が断行され、加害者は悔い改め、被害者も納得して、和解があり、教会全体に良い感化が及んだと推測されます。悔い改めるとはギリシャ語でμετάνοια(メタノイア)で、その意味は「心を変えること。自己の主権を放棄し、自己の行為の義への依存を捨てて、キリストに全く依存し、キリストを我が全生活の主とするという心の根本的な切り替えをする。」と、某辞典に記されていました。第一ヨハネ1:8~9には「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。自分が罪人であることを認め、悔い改めることは祝福の第一歩です。

③「全幅の信頼」…一つの問題(事件)に対して、適切な対応がなされたということで、パウロはこれを喜び、コリント教会の人々に対して、全幅の信頼を寄せることができると言っています。人と人が意思疎通できないとき、その二人の間には信頼関係を持つことができません。聖なる神と人との関係も同じでしょう。人の生涯は、ちょうど建物を建てることに似ています。建物で最も肝心な部分は土台です。固い地盤の上に土台が築かれ、その上に建物が建てられなければなりません。ルカ6:47~48には「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」とあります。私たちは、聖書のことばに聞き従うことによって、神に喜ばれ、また人にも信頼されるでしょう。ですから、日々、みことばと祈りに励み、自分がすべきことを示されて、それを実行してまいりましょう。

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