●2021年10月31日(日)礼拝メッセージ要旨 「真理のためなら何でもできる」 

第二コリント13:1~13からです。パウロはコリントに行くとすれば、三度目となります。もし、コリントの人々が悔い改めなければ厳しい処罰をすることになる、と言っています。しかし、パウロは、処罰よりも、彼らが悔い改め、築き上げられ、完全になることを望んでいます。ポイントを3つ上げていきます。

①「キリストと共に生きる(4節)」…キリストは力強いお方であるのに、人々を救うために、弱い者となって十字架につけられました。しかし、キリストは神の力によって、復活し、今この時も力強く生きておられます。私たちは弱い者でありますが、力強いキリストが共にいてくださいます。N教会のT牧師先生は、9月に肺の病気で、夜の九時頃、救急車で運ばれたそうです。翌朝、お粥などの朝食が配膳されましたが、食欲が全くありませんでした。しかし、その食物を生産した人、輸送した人、調理した人などのことを覚え、そして天の神に感謝をささげて、ゆっくりゆっくりと食べ始め、なんとか完食したそうです。その後、食事の時間が楽しみになり、やがて体も回復し、退院することができたとのこと。きっと、N教会では会員の方々が熱心に癒しのために祈っていたことでしょう。私たちも、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する(第一テサロニケ5:16~18)ならば、主は、その人を喜ばれ、その人と共におられ、栄光を現わしてくださるでしょう。

②「真理のためなら何でもできる(8節)」…一般的に、聖書を土台にして生きている人は殆どいないでしょう。ですから、無数の人々が真理に逆らって生きていると言えます。そういう中で、キリスト者は、聖書のみことばに立ち、真理に逆らわず、むしろ、真理に従っていかねばなりません。明治時代のことです。内村鑑三氏は、札幌農学校でクラーク博士に出会い、キリストを信じ、洗礼を受けました。アメリカ留学などを経験し、第一高等学校(現・東京大学教養学部)の教員となりました。1890年(明治23年)、教育勅語の奉読式が行われ、そのとき、内村鑑三氏は、最敬礼をしなかったという理由で、不敬罪とされ、職を追われました。その後、内村氏は、キリスト者としての道をさらに進むことになります。徹底して真理に従う、すなわち聖書のみことばを土台として生きるということは戦いもあります。しかし、それは永遠の祝福への道です。

③「完全な者になりなさい(9、11節)」…「完全になれ」と言われても、完全な人になることなど不可能です。ここでは、パウロが、コリント教会の一部の人々が悪を行なったり、パウロを批判したり、そういうことを止(や)めることを願って、そう言っているのでしょう。しかし、マタイ5:48には「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあります。その完全な者としての具体的な姿として、マタイ5:44には「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。確かに、何の躊躇もなく、そのように出来る人はいないでしょう。でも、出来なくても悩む必要はありません。出来ないからこそ、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈られたイエス・キリストに助けていただき、そのイエス様によって完全になることができるのです。

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