●2023年1月29日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日からテモテ第二の手紙(第二テモテ1:1~18)に入ります。第一の手紙はマケドニヤから書かれていますが、第二の手紙はローマの獄中からであり、パウロの書いた最後の手紙と言われていて、所々に重い内容が見られます。この1章は、内容豊かでポイントが5~6ほど上げられるのですが、ポイント3つで、まとめていきたいと思います。

 

①純粋な信仰 …テモテの純粋な信仰は、祖母ロイスと母ユニケから受け継がれているようです。親から子へ、子から孫へ、というふうにイエス・キリストを信じる純粋な信仰が受け継がれていくとすれば、幸いなことです。さて、純粋な信仰とはどういったものでしょうか。筆者は、立場的に他教派(健全な普通のキリスト教会)の牧師さんたちと会合などで出会う機会があります。そのとき感じることは、どこの教派に属する牧師さんであろうが、皆さん、自分の所属する教派に誇りを持っていて、「自分たちが最も純粋な信仰を持っている」と、口にこそ出して言うことはありませんが、そのように感じる空気感はあります。それはそれで、理解できることであると言えますが、あえて、「純粋な信仰の基準」を設けるとすれば、それは「聖書のことばを神のことばとして位置付けているかどうか」ということではないでしょうか。第二テモテ3:16には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあり、やはり、聖書のことばを神のことばと受け入れることから、純粋な信仰は始まり、そこが土台となっていくのです。

②力と愛と慎みとの霊 …パウロはテモテに、かつて按手して与えられた聖霊の賜物を再び燃え立たせるようにと勧めています。遠く離れていても、パウロは祈りの中でテモテの心の内を感知していたのでしょう。そして、7節で「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と言い、8節では、「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」と言っています。この章の15節では、フゲロとヘルモゲネという人たちが、パウロから離れていったことが記されています。しかし、その一方で、オネシポロの家族はパウロを捜し出して会いにきたのです。人を恐れるのではなく、神を恐れ、神の力によって行動しましょう。先日1月25日は、この地域にも寒波が押し寄せ、雪が降りました。マイナス6~7度くらいでした。雪の多い他地域に比べればわずかですが、それでも天候をも支配している真の神の偉大な力を覚える時となりました。私たちは、その神から、それぞれの使命に生きるための力をいただき、神の愛と謙遜を併せ持ちながら、主を証しさせていただきましょう。

 

③確信している…パウロは、「イエス・キリストの救いを受けるということは、永遠の昔からご計画されている(9節参照)」ということを言っています。そしてパウロは、その救いの福音の宣教者、使徒、教師として神に立てられたのです。そして、12節で「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」と言っています。「私のお任せしたもの」とは何でしょう。それは、最後の最後まで信仰を守り抜き、永遠の天の御国に凱旋するということではないかと思います。そのことをパウロは、イエス・キリストのゆえに確信していたのです。

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