ヘブル人13:1~13から「キリストはいつまでも同じです」という題で、ポイント3つ上げていきます。
1.あなたを捨てない…「兄弟愛、旅人をもてなす。牢につながれている人を思い遣る。結婚が尊ばれるようにする。金銭を愛する生活をしない。」といったことが書かれていて、そのあとで、申命記31:6から「主はあなたを見放さす、見捨てない」、詩篇118:6から「主は私の見方、私は恐れない。人は、私になにができよう」と言っています。クリスチャンとして、この世の中で生きていくとき、色々な戦いがあり、心揺さぶられることもあります。でも、主はご自分の聖徒を特別に扱ってくださり、祈りに答えてくださいます(詩篇4:3参照)。また、エレミヤ33:3には「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあります。毎日の生活の中で、小さなことでも何でもはばかることなく主に向かって祈りをささげましょう。
2.キリストはいつまでも同じです…7節には、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」とあります。人の命は、創造主なる神が握っておられ、その人が、神を恐れ、神と人とを愛して生きるならば、神はその人に良い報いをお与えになるでしょう。逆に、神を恐れることなく、人を人とも思わないで生きるならば、神はその行ないに応じた報いをされるでしょう。ガラテヤ6:7には「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とある通りです。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じであり、神の法則は不変です。イサクの双子の息子たちはエサウとヤコブです。兄のエサウは世俗的な生き方をした人です。一方、ヤコブは兄に比べて創造主なる神と霊的なものを求めて生きた人です。ヤコブは後のイスラエルであり、今日のイスラエル人の祖先です。エサウの子孫はエドム人です。キリスト降誕時のユダヤの王はヘロデ大王です。彼はエドム人で、神を恐れることなく世俗的な人でした。オバデヤ書18節の後半には「~エサウの家には生き残る者がいなくなる、と【主】は告げられた。」とあり、今日エドム人もヘロデの子孫も消滅してしまいました。
3.キリストのはずかしめを身に負って… 11節には「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。」とあります。そのことは、出エジプト記29:13~14に記されています。そのことと関連付けて、キリストが十字架で死なれたとき、ゴルゴダの丘で苦しみを受けられたように、私たちも、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか、と勧めています。要するに、私たちが、この世において、キリスト者として生きて行くとき、聖い生き方が求められ、時に、この世の人々とは行動を共にすることが出来ないことがあります。例えば、今はこれからお盆のシーズンを迎えます。お盆の行事は、地獄に行った死者の霊が一時的に帰ってくると言われ、その死者の霊を供物や盆踊りで慰めようとするものです(但し諸説あり)。聖書では、死者の霊が地上に帰るということはありえないので、当然、クリスチャンが盆の諸行事に参加するということは愚かなことです。たいてい、この世の諸行事は、偶像礼拝と不品行が伴うものです。ローマ12:2には「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。