今日は黙示録5:1~14からです。 「ダビデの根が勝利を得た」という題でポイント3つ上げていきます。
1.封印を解くのにふさわしい者…天の御座に座しておられる方が右手に巻き物を持っておられ、その巻き物には内側にも外側にも文字が書かれ、七つの封印で封じられていました。そのとき、ひとりの強い御使いが大声で「巻物を開いて封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っています。巻き物を開くことのできる者が見つからないので、ヨハネは激しく泣きました。そのとき、ひとりの長老が「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根(イエス・キリストのこと)が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」と言います。この長老のひとりとヨハネのやり取りの中に一つの隠された奥義を見ることができるのではないでしょうか。それは、この黙示録に限らず、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、聖書のことばを受け入れ、それを理解することが許されているということです。と言うのは、未信者の方々は聖書を受け入れることも、信じることもせず、第一、関心さえ持つことがないのが通常ではないでしょうか。そういう中で、神に選ばれた人々は、聖書を毎日読み、そして、そのみことばを信じて、自分の生活に反映させているのではないでしょうか。でも、それは、先に述べた巻き物を解くのにふさわしい方であるイエス・キリストの助けによっているのです。
2.立琴と香のいっぱい入った金の鉢…小羊が御座に座る方から巻き物を受取ったとき、四つの生き物と24人の長老は、立琴と香のいっぱい入った金の鉢を持って、子羊の前にひれ伏しました。この香は聖徒たちの祈りであるとしています。立琴については言及していませんが、「賛美、祈り、施しなど」は天に積まれた宝と言えるものではありませんか。詩篇141:2には「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」とあります。マタイ6:20には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とあり、使徒10:4後半には「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」とあります。私たちは、主に賛美をささげ、祈りをささげ、そのほか主が喜ばれることを行なって、天に宝を積み上げましょう。そこは、錆びることも盗人に盗まれることもないのですから。
3.ほふられた小羊への賛美…ここでは、ほふられた小羊に対して賛美をささげる三種類のグループがいます。第一のグループは、四つの生き物と24人の長老。第二のグループは、多くの御使いたち。万の幾万倍、千の幾千倍と表現するほどに多くいます。第三のグループは、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物たちです。この三つのグループが最大限の表現で、ほふられた小羊を賛美しているのですね。なぜ、これほどまでにほふられた小羊であるイエス様を賛美しているのでしょうか。それは、ピリピ2:6~9を見ますと「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と記されているとおり、イエス様は、ご自身が神であられる方であるのに、人間と同じようになられ、実に十字架の死にまで従われたからです。ローマ12:11には「 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。私たちのクリスチャン生活も、かれらと同じように、全力を尽くして主を賛美し、主に仕えてまいりましょう。