今日は黙示録8:1~13からです。黙示録6~11章では、七つの封印と七つのラッパが出てきて、黙示録の中心的な内容を表していると言えるでしょう。今日は、七つ目の封印が解かれ、七人の主の使いが七つのラッパを持っていて、そのうちの四つのラッパが吹き鳴らされるところから見て行きましょう。やはり、ポイント3つ上げていきます。
1.聖徒たちの祈り…ラッパを持つ七人の御使いの他に、もう一人の御使いが現われ、金の香炉を持って祭壇のところに立つと、たくさんの香が与えられ、全ての聖徒の祈りとともに祭壇の上にささげようとしていました。先の黙示録5:8にも「この香は聖徒たちの祈り」という表現があります。詩篇141:2にも「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」とあります。終末と言われるこの時に、クリスチャンの祈りが天に香として立ち昇り、天の神様の御働きのために用いられるということなのでしょう。ですから、私たちは、いつでもどこでも主の御名によって祈りを天に立ち昇らせましょう。「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(Ⅰテモテ2:8)」
2.四つのラッパ…この8章では七つのラッパのうち第一から第四までの四つのラッパについて取り上げられています。第一の御使いによってラッパが吹き鳴らされると、地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草は全部焼けてしまいます。同じように第二のラッパが吹き鳴らされると海が害を受け、第三のラッパのときは川が、第四のラッパでは天体の三分の一が暗くなります。つまり、天の神が人間に対して、少しづつ警告を与え、人々が神に立ち返るように願っておられるのではないでしょうか。この広い、広い宇宙の中で生命の躍動があるのは地球だけです。水、空気、適度な気温、それは、全知全能の真の神がこの世界を創造し、そこに植物、あらゆる生物、そして人間を形造り、住まわせておられます。しかし、多くの人々は、創造主なる神を認めることなく自分勝手な生き方をしています。イザヤ53:6には「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。神に反逆する人々に対して、神はなおも人々に目を留め、救いの御手を差し伸べておられるのです。しかし、神はいつまでも反逆する人々に対して寛容ではありません。ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。私たちは、救い主イエス・キリストの御名を呼び求め、その救いに与り、そして、自分の救いだけではなく、家族、友人、知人の救いのためにも祈り、福音を伝えましょう。
3.わざわいが来る…第四のラッパが吹き鳴らされたあと、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」と言います。この地が三分の一づつの害を受けることも大変なことであるのに、それよりもっと大きな災いが来ると言っているのです。確かに、このあと9章の第五のラッパでは星が天から落ちます。第六のラッパではハルマゲドンと言われて一般的にも知られている世界最終戦争が起こります。第1~4のラッパはマタイ24:8でキリストが「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」と言われたことの範疇の出来事かと思います。また、第5~6のラッパはキリストがマタイ24:21で「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」と言われたことと重なるでしょう。先週の7章では、ひとりの御使いが「神のしもべの額に印を押す」という表現がありました。ズバリそれは、選ばれた人々がキリストに立ち返るということです。私たちは、イエス・キリストを信じ、従い、キリストの再臨を待ち望む者となりましょう。