創世記1:1~31からです。「初めに神が天と地を」という題でポイント4つ上げていきます。
1.初めに神が天と地を創造した…1章1節のみことばは、あまりにも有名で、同志社大学を創立した新島譲氏は18歳のとき、漢文の聖書の創世記1章1節を読み、大きな感化を受けたということです。その後、新島氏は21歳のとき、幕末の時代背景の中、密出国の形ながら船に乗り込み、アメリカに渡りました。アメリカでは札幌農学校で教えたクラーク博士から教えを受け、また、当時の外交官のような立場の森有礼氏(後の初代文部大臣)に出会い、留学免許状とパスポートを受けています。その後、日本から派遣された岩倉具視使節団一行に出会い、彼らに雇われて通訳者としてヨーロッパに同行したようです。さて、この「初めに神が天と地を創造した」というみことばは、この創世記1章全体の案内文のような意味合いがあると思います。2節では、地は茫漠としていて、やみが大水(水分)の上にあり、神の霊が水の上を動いていたとあります。その状態で3節から、六日間で行われる天地創造のわざが始まっていくのでしょう。
2.創造の六日間…ある聖書の解説書で指摘していたのですが、下の図のように、第1日と第4日、第2日と第5日、第3日と第6日というふうに、横との関連性を考えると興味深いし、覚えやすいのではないでしょうか。
第1日…光と闇 | 第4日…太陽と月、星 |
第2日…海と空 | 第5日…魚類と鳥類 |
第3日…地と植物 | 第6日…生き物と人 |
3.「さあ、人を造ろう」…ここで神は「われわれのかたちとして、われわれに似せて人を造ろう」と言っています。「われわれ」とは「父・子・聖霊」の三位一体の神のことではないかという説が有力視されています。さて、「神のかたち、神に似せて」とはどういうことでしょう。一般的に言われている進化論の考え方では、人間は他の生物や動物と同じ進化の延長線上にあるとしています。しかし、聖書はそうではありません。神は、特別な存在として人間を創造しました。むしろ、人間のために他の全ての被造物を創造した、と言っても過言ではありません。人間は、聖なる神のあり方、そのご人格(ご神格)に似せて造られたのですが、この後の創世記3章に出て来るアダムとエバが罪を犯し、人間に罪と死が入り、神の祝福を失ってしまいます。しかし、救い主イエス・キリストが来られ、十字架と復活による救いのゆえに再び回復の機会が与えられているのです。エペソ3:23~24には「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。私たちはイエス・キリストを信じ受け入れ、バプテスマを受けてキリストをその身に着る(ガラテヤ3:27)のです。そして、聖霊の助けをいただきながら、食べるにも飲むにも、何をするにも神の栄光を現わす(Ⅰコリント10:31)ことを求めましょう。
4.「それは非常によかった」…六日間の創造のわざを終えて、神はそれを見られます。それは非常に良かったのです。ヨハネ1:29で、バプテスマのヨハネは自分のほうに来られるイエス様を見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言います。今日(こんにち)、悔い改めてイエス・キリストを信じ受け入れるならば、その人の罪は取り除かれるのです。現在の世界人口は約80億人です。もし、仮にその80億人全員が、イエス・キリストを心底信じているなら、この世界はどうなるのでしょう。戦争がない、世界中が潤っていて砂漠も無い、互いに助け合い、平和で喜びに満ちているでしょう。主がそれを見て「それは非常に良い」と言われるでしょう。現実的には、それは不可能でしょうが、まず、私たちそれぞれがイエス・キリストにあって歩むことです。最後にエペソ4:30~32です。「 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」