●2025年1月26日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記12:1~20からです。この章から信仰の父と言われるアブラ(ハ)ムが取り上げられていきます。その後は、次にイサク、ヤコブ(イスラエル)、そしてモーセ、ヨシュアというふうに、その時代ごとに神に用いられた人物が現われ、イスラエル民族にスポットが当てられていきます。この章もポイント3つ上げていきます。

1.「あなたの名は祝福となる」…主である神はアブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と言われます。アブラムの名の意味は「尊い父」です。創世記17:5で主はアブラムにアブラハムとなると、改名を伝えています。そのアブラハムの名の意味は「多くの国民の父」です。聖書の記事においては、今日、アブラハムの孫であるヤコブ(イスラエル)の子孫が地上的な選びの民とされています。さらに聖書の記事においては、もう一つの大事な「霊的な選びの民」が存在します。それは、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされ、アブラハムの祝福を受け継ぐ人々のことです。ガラテヤ3:14には「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」とあります。アブラハムへの祝福とは何でしょう。それは①魂の救い、②すべての点における幸い、③健康です。(Ⅲヨハネ2参照)アブラハムはヘブル11:10で「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」と言われていて、富や長寿だけではなく、たましいの幸い、永遠のいのちへの希望も持っていたのです。

2.「信仰の人アブラ(ハ)ム」…アブラムは、主から「わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、言われた通りにカナンの地へ出かけました。ヘブル11:8では「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」と記されています。現在の私たちが旅行するとすれば、ネットで旅先の情報を丹念に調べてから、出発するでしょう。「行くところを知らないで出発」するとは、それだけ主なる神を信頼していたということです。アブラムは、ハランからシェケム、ベテル、そしてネゲムへと移動していきます。主から「わたしが示す地へ行きなさい」と言われているものの、そこに行ったら、決して順風満帆ではありません。戦いがあるのです。これは、こんにちのクリスチャンも同じです。しかし、違うのは選びの民には全地全能の神が共におられ、みことばと祈りがあります。信仰の人アブラ(ハ)ムのように、そこで信仰を働かせなくてはなりません(ヘブル11:6参照)。

3.「エジプトへ下った」…アブラムには、さらなる試練があります。カナンの地が飢饉で、エジプトに下って行きます。当時エジプトはパロ王が君臨していました。アブラムの妻サライは稀に見る美女であり、アブラムは自分の身を守るために、妻サライに「私の妹だと言ってくれ」と口裏合わせをします。案の定、サライはパロの高官の目に留まり、パロ王に召し入れられる破目になります。しかし、そこに主が介入され、パロとパロの家にひどい災害が襲い、サライはアブラムに返されます。アブラムはサライを差し出した時点でパロから受けた多くの家畜や男女の奴隷を受け取りました。つまり、結果的にアブラムは以前の何倍かの財産を保有することになったのです。もちろん、信仰の人アブラ(ハ)ムが「なぜ、偽装工作をし、その上、妻サライをパロに引き渡したのか?」という疑問点は残ります。そのあたりは、やはりアブラムも人間としての弱さを露呈したということなのでしょうか。しかし、結果として見るとき、神に召された人には、神は全てを益として下さった(ローマ8:28参照)ということでしょう。キリスト者はイエス・キリストのゆえに天にある全ての霊的祝福を受けています(エペソ1:3参照)。ですから、私たちは、キリストのからだである教会を建て上げるという目的を基軸にしつつ、この世における様々な戦いに対して信仰によって勝利していきましょう。

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