創世記16:1~16からです。「ハガルとイシュマエル」という題で、ポイント3つ上げていきます。
1.「私は子どもの母となれるでしょう」…カナンの地に来て10年。アブラム85才、サライ75才くらいのときのことです。二人の寿命は、アブラムは175才、サライは127才ですから、現代の感覚とはまた異なっているかと思われますが、それでもやはり、二人は年寄りで、彼らから子が生まれるということは考えにくい状態でした。創世記15:4で主はアブラムに「あなた自身から生まれ出て来る」と言っておられるのですから、それを信じてひたすら待っていれば良かったのですが、なかなか子が生まれないという現実に対して、サライは焦りを感じたのでしょう。彼女は、エジプト人の女奴隷ハガルを妻としてアブラムに与え、子が生まれたら、自分はその子の母になれると考えたのでした。ヤコブ1:3~4には「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。「完全な者となる」などということは不可能とも言えますが、それでも、私たちは成熟を目ざして一歩一歩進みましょう。
2.「サライが彼女をいじめた」…ハガルが身ごもると、彼女は女主人サライを見下げるようになります。サライはそれに怒って、アブラムに対して「あなたのせいです」と抗議します。元々、事の発端はサライです。尤も、アブラムもサライの提案をきっぱりと拒否すれば良かったのですから、確かにアブラムに責任は無いとも言えません。アブラムはサライに対して「あなたの好きなようにしなさい」と言うと、サライはハガルをいじめたので、ハガルはエジプト方面に逃げます。しかし、主の使いがハガルに現われ、「女主人のもとに帰り、彼女の下で身を低くしなさい」と言います。ここで、私たちは、人間社会におけるあり方について三つのことを確認したいと思います。1つは、聖書では人間は主なる神の前に上も下もないということ、人は皆平等であるということです。2つ目は、この世においては様々な上下関係が現実的に存在します。3つ目は、神の摂理ということです。全てのことは創造主なる神から発しています(ローマ11:36参照)。我々人間は、神の摂理の下に生かされ、それぞれの立場に置かれていると言えます。サライとハガルの関係から言えることは、神の摂理の下に女主人はサライで、ハガルは彼女に仕えていました。もちろん、奴隷制については肯定されるべきでありませんが、こんにち、私たちも、神から与えられたそれぞれの使命に生きるということです。
3.「主が聞き入れられる」…主の使いはハガルに、「女主人のもとに帰りなさい」と言ったあと、「ハガルの子孫が増えて数えきれないほどになる。また生まれる男の子にはイシュマエル(神は聞かれるの意)と名付けなさい。その子は野生のロバのようになって、すべての人に敵対する」と言っています。ローマ9:7~8には「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。」とあります。つまり、神の選びの民は、イシュマエルの子孫ではなく、イサク、そしてヤコブの子孫です。そうだからと言って、主なる神はハガルに目を留め、また生まれて来るイシュマエルとその子孫についても心を配っておられます。たとい神の選びの民であっても、今日、イエス・キリストを拒むなら、その救いに与ることはできません。アラブ人であろうとその他の異邦人であろうと、イエス・キリストのうちにある者は、罪赦され、義とせられ、まことのいのちを持つのです。詩篇65:2には「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。」とあり、また、ヨハネ14:14には「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしましょう。」とあります。私たちはイエス・キリストの御名によって、祈りを聞かれる方を呼び求め、神の栄光が現わされることを期待していきましょう。