創世記19:1~38からです。「ソドムとゴモラ」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「ソドムの罪の現状」…二人のみ使いがソドムに着くと、ソドムの門のところにいたロトは、彼らがただの人たちではないと感じたのでしょう。彼らを自宅に招き入れ、もてなします。そして、彼らが床につかないうちに、ソドムの町の全ての人々がロトの家を取り囲み、「今夜、お前の所に来た男たちは何処にいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたい。」と言います。「知りたい」とは性的な意味で発せられているのでしょう。ここまで読むだけでも、ソドムがどれだけ罪と狂気で乱れた町であるか、ということを覚えます。元々、彼らもアダムの子セツの子孫であり、あの神と共に歩んだエノクの子孫であり、正しい人、全き人であったノアの子孫でもあります。逆に言うならば、よくぞこれだけ悪い町になったものだと驚きます。それは、創造主を恐れることなく人間の欲望のままに生きてきた結果なのでしょう。アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンは「神(God)と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」と言っています。イエス・キリストはマタイ5:17で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。聖書のみことばが、この日本に、世界に満ちますように。
2.「ロトの霊性と主のあわれみ」…み使いたちは、ロトの家を取り囲んだ者たちに目つぶしをくらわせ、ロトに「身内の者を連れ出し、この場所から逃れなさい」と言います。ロトは婿たち二人に告げますが、彼らは冗談だと思って聞き入れません。ロト自身もためらっていたので、結局、主のあわれみのゆえに、ロトと妻と二人の娘が、み使いたちによって手を引っ張られて連れ出されます。み使いは「命がけで山に逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と言います。ロトは山に逃げることはできない、と言い、小さな町ツォアルに逃れることを願い、聞き入れられます。その後、30~38節では山の洞穴に移動したロトと二人の娘たちは父に酒を飲ませて、自分たちの子孫を得ようとし、姉からモアブが生まれます。ロトも、娘たちも、それだけソドムの悪い影響を受けていたとも言えるでしょう。しかし、Ⅱペテロ2:8には「というのは、この義人(ロト)は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」とあるように、ロトの全てが否定されているのではありません。主はあわれみ深い方です。キリストの系図の中にあるマタイ1:5では、エリコの遊女であったラハブによってボアズが生まれ、ボアズにモアブ人のルツによってオベデが生まれたことが記されています。オベデはダビデ王の祖父です。哀歌3:22には「私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」とあります。今日も、主の大きなあわれみが私たちの上に注がれているのです。
3.「天からの火と塩の柱」…前日の夜から朝になり太陽が上った頃、ロトはツォアルに着きました。そのとき、主は硫黄の火を天の主の所から降らせ、ソドムとゴモラを滅ぼしました。途中、ロトの妻はうしろを振り返ったために塩の柱となってしまいました。ユダ書7節には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」とあります。今、この世界は世の終わりに差し掛かっていると言えます。ノアの時代は水で世界が滅ぼされましたが、今度は火で世界が焼き尽くされます。しかし、私たちが、救い主イエス・キリストのうちにあるなら、主の再臨のとき、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う(Ⅰテサロニケ4:17)のです。最後はⅡペテロ3:14です。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」