●2025年7月27日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記32:1~32からです。「ヤコブとエサウの再会へ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ここは神の陣営だ」…これまでヤコブは、ベエル・シェバからハランに行く途中のベテルで、石の枕をして寝ている時に、夢で天から地に向けて立てられたはしごを上り下りしている主の使いを見ます。そして、ハランからヨルダン川東岸あたりに来て、今度は夢ではなく、現実的に複数の主の使いを見ます。それでヤコブは「ここは神の陣営だ」と言い、そのところをマハナイムと呼びます。ベテルの時は、未知のハランに行くと言う不安があったでしょう。マハナイムでは、双子の兄であるエサウに再会することへの大きな不安があったでしょう。Ⅱ列王記6章で預言者エリシャがいる町をアラムの軍隊が包囲したとき、エリシャの回りに天からの火の馬と戦車が取り巻き、守っていました。イザヤ41:10には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とありますが、主はヤコブに対して、度々御自身を現わし、「恐れるな。わたしが共にいる。あなたを守る。」と、そうヤコブに宣言しておられるのではないでしょうか。それは、今日、クリスチャンに対しても同じです。イエス・キリストの御名によって、「恐れるな。わたしが共にいる。あなたを守る。」と、主が言っておられるのです。

2.「ヤコブは非常に恐れ」…ヤコブはセイルの地、エドムの野にいるエサウに使いを贈り、ご機嫌伺いとも言える伝言を委ねます。すると、その使いが戻ってきて「エサウは400人を引き連れてやって来る」と言います。それを聞いてヤコブは非常に恐れ、心配します。それで、宿営を二つに分けたり、エサウへの贈りものを選んだり、群れと群れの間を開けたりとあらん限りの工作を施します。ここを読んで私たちは、ヤコブはなんという臆病者か、また人間的な工作ばかりを施すのか、エサウに対してもなんて卑屈で、へつらっているのか、と思うのではないでしょうか。確かにそういう一面も否定できません。しかし、次章の33:4でヤコブとエサウは再会を果たし、互いに抱擁し合い、万感こみ上げたのでしょう。互いに泣いているのです。結果を見ると、「これで良かったのでは」とも言えます。ローマ12:2には「 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。自分以外の回りを変えようとするよりも、まず大事なことは、神のみこころを求め、そこに自分を合わせていくことです。

3.「私を祝福してくださらなければ」…ヤコブはヤボクの渡しを渡ってから、一人だけあとに残り、ある人(神の人?)と格闘しました。その人はヤコブに勝てないので、ヤコブのもものつがいを打ちます。その人は「わたしを去らせよ」と言いますが、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ去らせません」と言います。すると、その人はヤコブの名を聞き、「あなたはもうヤコブと呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い勝ったからだ」と言われ、ヤコブを祝福します。この箇所から、今日のクリスチャンが神の祝福を勝ち取るために格闘しながら夜を徹して祈る、その雛型として捉えるとするとすれば、それも間違いとは言えないでしょう。否、むしろ、私たちもヤコブに倣い、祝福を求めて切に神に祈り求めるべきです。人と人との関係においては、ぎとぎと、ねちねちしていたら、嫌がられるでしょう。しかし、全能の主は、あっさり、サッパリよりも、執拗に、熱心に求める人を喜ばれるのです。

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