クリスマス礼拝ということで、キリスト降誕時の状況を最も詳しく記してあるルカ2:1~20から、「きょうダビデの町で」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「ダビデの町(ベツレヘム)で生まれた」…ダビデの父はエッサイで、彼はベツレヘム人(Ⅰサムエル記16:1)と記されています。つまり、ダビデはベツレヘムの出です。ダビデはそののちイスラエルの王、名君となり、ベツレヘムはダビデの町とも呼ばれるようになりました。ダビデの時代から約1000年が経過して、主がダビデに約束されていた「彼の王国を確立させるダビデの身から出る世継ぎの子(Ⅱサムエル7:12)」としてイエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになりました。父ヨセフと母マリヤは共に、アダムからダビデまでの家系図は同じです。ヨセフはダビデの子ソロモンの系統、マリヤはダビデの子ナタンの系統です。その時マリヤは未婚の処女で、聖霊によって身籠っていたのです。当時、ヨセフとマリヤはナザレに暮らしていました。通常ならマリヤはナザレで出産するところでしたが、ローマ皇帝アウグストが「自分の町に行って住民登録をせよ」という勅令を出し、計らずも彼らはダビデの町(ベツレヘム)へ行って、結果的にそこでの出産となります。昔も今も、この世界に住む人々は政治や世の動きに翻弄されて生きています。でも、その背後に全知全能の神に御手があるのです。
2.「飼葉おけに寝ておられた永遠の主」…全知全能の神のひとり子ですから、どんなことでもいとも簡単にお出来になるのですが、なんと、イエス様は生まれて飼い葉おけに寝かされていました。それは神の愛の表れと言えるでしょう。こののち、イエス様は、およそ33年後、罪の無い方なのに十字架に架けられ、殺されます。それは多くの人の罪をその身に負い、罪の赦しと永遠のいのちをお与えになるためでした。つまり、イエス様が飼い葉おけに寝ておられたのは、そののち十字架に架けられ、多くの人の罪をその身に負われるという神の愛を現わす始まりだったと言えるでしょう。ピリピ2:6~8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とあります。この世の王たちは、その権力をふるい、人々を支配しようとします。しかし真の神は愛の神、人々を救うために貧しくなられ、十字架で苦しみを受けられ、死なれました。もちろん、イエス・キリストは死から復活し、今も生きて私たちを執り成してくださっています。
3.「喜びの知らせを聞いた羊飼いたち」…羊飼いたちが野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていたとき、突然、主の使いが彼らのところに現われ、主の栄光が回りを照らしました。羊飼いたちは恐れました。主の使いは彼らに「恐れることはありません。この民全体のすばらしい喜びを知らせにきたのです。」と言いました。そして、さらに、「きょうダビデの町で救い主が生まれた。そのしるしとして、そのみどり子は飼い葉おけに寝ておられる」と言うのです。すると天の軍勢が現われ、先の御使いとともに神を賛美するのです。なんと物凄い光景だったことでしょう。羊飼いたちは互いに「ベツレヘムに行って見て来よう」と言い、飼い葉おけに寝ておられるイエス様を探し当てたのです。そして、今起こったことを話すと、聞いていた人たちは驚きました。聖書は「 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:17~18)」と言っています。今日、イエス・キリストを信じる者は救いを受けます。やがて、この地上を去る時が来ても、あの羊飼いたちが見た物凄い光景(天の軍勢の賛美)を永遠の天の御国で見ることになるでしょう。