●9月4日礼拝メッセージ要旨(ルカ16:1~13)

   「小さなことに忠実な人」という題で、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①不正な管理人から学ぶべきこと…そもそも、不正を働く管理人から何を学ぶのかと思ってしまいますが、この不正な管理人は、元々、主人の財産を乱費し、その上、さらに不正を重ねてまで、次の自分が働く場所の備えをしたのです。それほどまでして、自分のために備える不正な管理人を、主人は褒めました。このたとえ話で、キリストは何を私たちに言わんとしているのでしょうか。不正な管理人が自分のために、あの手この手で必死になって自分の後の日ために備えたように、私たちも次の世である永遠の住まいに入るための備えを全力を尽くしてしなければなりません。
   ②小さい事に忠実な人…永遠の住まいの備えをしたら、今度は、それぞれに与えられた使命を全うするために、目の前にある小さな事をコツコツと続けることです。創世記にはヤコブの息子でヨセフという人が登場します。ヨセフは、エジプトに奴隷として売られましたが、売られた先の主人ポティファルに忠実に仕えました。すると、やがてヨセフはポティファルの家の管理人となりました。ところが、ヨセフは何も悪い事をしなかったのに、ポティファルの妻に濡れ衣を着せられ、牢に入れられてしまいます。ヨセフは、牢の中でも誠実でした。やがて、ヨセフは囚人の身でありながら、囚人全体の管理人となりました。そして、あることによって牢を出たときに、ヨセフはエジプトでパロ王の次の権威を持つ、実質、総理大臣のような位に抜擢されたのです。私たちも、今、与えられたその所で、心を込めて忠実に仕えましょう。時には自分の思うとおりにならないことがあるかもしれません。しかし、真の神を信じる者にとっては全てのことが益になる(ローマ8:28)と信じて前を向いてまいりましょう。 
   ③二人の主人に仕えることはできない。…天地を創造した真の神に仕えるか、それとも富に仕えるか。もちろん、大富豪でありながら神に仕えている人もいることでしょう。問題は、神のしもべとなっても、富の奴隷にはならず、神に仕えながらも、富は上手に管理しているということでしょう。第一コリント15:45には「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」とあります。最後のアダムとはイエス・キリストです。神に仕えるとは、神の働きをすることです。生かす御霊であるイエス・キリストの聖霊様とともに、滅びに向かっている人を探して救い出す働きに参画することです。私たちの人生、「ただ生きている」だけではなく、与える人生、神に仕える人生でありたいと思います。「受けるよりも与えるほうが幸い(使徒20:35)」とあります。神に仕え、与える生き方が祝福を受ける道です。

●8月7日礼拝メッセージ要旨(ルカ14:25~35)

   「キリストの弟子となる」という題でポイントを3つ上げて学 びましょう。
   ①家族愛と自己愛…大勢の群集がキリストと一緒に歩いてついてきたので、キリストは彼らに対して、安易な気持ちで自分についてくることを戒めたのでしょう。26節では、家族と自分を憎まない者はキリストの弟子になることはできないと言われました。もちろん、自分と家族を憎んで良いはずがありません。第一テモテ5:8には「家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって不信者よりも悪い」とあります。つまり、キリストの弟子となるためには、自分や家族よりも、まずキリストを第一としなければならないということです。なぜなら、そもそもこの世界はキリストによって創造され、私たち一人一人もキリストによって形造られ、生かされているのです。キリスト信仰により、やがて天の永遠のいのちに入らせていただくならば、そこは、「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。(詩篇73:25)」とある通り、キリスト一色の世界です。であるならば、私たちは、この地上での生活から天に照準を合わせていく必要があります。天国に照準を合わせた生活とは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)」ではないでしょうか。自分も大事、家族も大事です。でも、キリストの弟子はイエス・キリストを第一とします。
   ②キリストに従う…28~30節に、塔の建設について語られています。当教会の建物についても言えますが、やはり、完成の見通しがないと建て始めることはできません。キリストの弟子として信仰を全うしていくためには、その覚悟が必要です。33節には、「自分の財産全部を捨てないでは、キリストの弟子になれない」とありますが、財産にしがみついてはいけないということです。財産を持っている人は、それを神の栄光の為によく管理して用いればよいのです。
   ③塩気を失ってはならない…今年はキリスト以後(AD)2016年、人類最初の人アダムが生まれたのはキリスト以前(BC)4000年頃で、人間の歴史はほぼ6000年です。ヘブル4:1~4の「七日目の神の安息」、第二ペテロ3:8の「一日は千年、千年は一日」という記事から勘案して、今の時は終末時代と言ってよいでしょう。終末時代に起こることとしてキリストは「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と言われました。確かに、科学は進歩しても、不法は無くなるどころか益々酷くなっています。そこで私たちは「だから仕方ない」と思ってはいけません。地の塩となって、この世の腐敗を防止し、それだけに止まらず、福音を証しし、世を変えて行くんだという気構えを持って過ごしましょう。

●8月21日礼拝メッセージ要旨(ルカ15:11~32)

8月21日礼拝メッセージ要旨(ルカ15:11~32)

   「父親と二人の息子」という題でポイントを三つあげて学びましょう。
   ①我に返った放蕩息子…父親から財産の分け前をもらって遠い国へ旅立った弟息子は、もらった財産を湯水のように使い果たして文無しになりました。そのときちょうど大ききんが起こり、食べるにも困った弟息子は、ある人のところへ身を寄せると、その人は彼に豚の世話をさせました。弟息子は空腹で、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思いましたが、誰一人彼に与えようとしませんでした。みじめな状況の中で我に返った弟息子は、父親の所に帰り、謝ろうと思いました。彼は、自分の置かれた状況を冷静に見つめ直しました。そして、今、自分が何をすべきかを考え、実に的確な判断と行動をしたのです。私たちも、今、置かれたところで、自分自身を自己分析し、自分の状態を正しく把握して、自分が今後どこへ向きを進めていくべきかを正しく判断しましょう。
   ②父親の愛…放蕩息子が家に帰ると、父親は、彼がまだ家に着かないうちに走り寄って迎え、着物を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせます。息子が「私は天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は、彼を一言も責めることなく、宴会の用意をさせます。神の愛は赦しの愛です。イエス様は十字架の上で、「「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈られました。また、「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。(詩篇86:5)」とあるように、主は赦しに富む方です。私たちも、その主に赦された者とされ、今度は人々に対して、赦しに富む者となりたいです。
   ③兄息子を説得する父親…兄息子は、畑から家に帰ってくると、宴会で家が賑やかなのを知り、雇人に「これはいったい何事か?」と尋ねると、弟が帰ったので父親が喜んでお祝いしているということを聞き、怒って家にも入りません。(この聖書の箇所の文脈から、この兄息子はパリサイ人、律法学者たちのことであり、弟息子は取税人や罪人のことでもあります。)それを知った父親は、兄息子を懸命に説得します。兄息子が、父親の言う事を素直に聞いたかどうか聖書には記されていませんが、この兄の姿は、案外、私たちが嫉妬心のような感情を持つとき、同じような状況に立たされるのではないでしょうか。そういったとき、自分の感情に従って怒るか、それとも、聖書のことば「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12:15)」のような行動をとるか、です。もちろん、私たちは、砕かれて、みことばに従い、祝福を受ける者となりましょう。

●8月14日礼拝メッセージ要旨(ルカ15:1~10)

  「天で喜びがわき起こる」という題でポイントを3つ上げて学びましょう。
  ①失われた人…天の神様が最初の人アダムを形造られたとき、人間がロボットを自分の意のままに作るようにではなく、自由意志をもった存在としてエデンの園に住まわせました。しかし、アダムとエバは、神の命令に背いて、食べてはならないと言われた木の実から食べて、園から追い出され、神から離れ、失われた人になってしまいました。イザヤ53:6で「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」とあるとおりです。失われた人の特徴は、孤独、虚無感、罪責感、死の恐怖の四つだと言った人があります。キリストは、この世に失われた人を捜して救うために来られました。もし、自分は失われた人であると自覚するならば、「イエス様。信じます。」と言って、キリストを心に迎え入れ、真の神とともに歩もうではありませんか。
  ②天で喜びがわき起こる…百匹の羊のうち一匹をなくした人も、十枚の銀貨のうち一枚をなくした人も、それぞれ、それを見つけると大喜びし、近所の人達を集めて、一緒に喜んでくださいと言います。私も、二年ほど前に、免許証やキャッシュカード、保険証などの入った名刺入れを紛失してしまいました。あちこち探して、ようやく見つけましたが、見つけるまでは心落ち着くことが出来ませんでした。その日は土曜日で、次の日曜日の礼拝には皆さんと見つけた喜びを分かち合ったことを覚えています。同じように、一人の罪人が悔い改めると、天の御使いたちに喜びがわき起こるのです。キリストに遣わされた70人が、キリストの名を使うと悪霊どもが服従したと言って喜んで報告すると、キリストは「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。黙示録20:15には「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とあります。聖書は永遠の滅び、第二の死があることを明確に語っています。キリストの十字架の救いを受け入れ、いのちの書に名が記された者とさせていただき、このことを何よりも喜ぶ者となりましょう。
  ③私たちの務め…この世にある喜びは、いつか消えてしまうでしょう。私たちは、いつまでも消えることのない価値ある喜びのために自分をささげていくことが最も尊いことと言えるのではないでしょうか。そのためには、心燃やして生きることが必要です。神にとって不可能なことは一つもない(ルカ1:37)のですから、多くの人々がキリストの救いに与り、天のいのちの書に名が記されることをめざし、神に期待して祈り続けてまいりましょう。

●7月31日礼拝メッセージ要旨(ルカ14:1~24)

   「盛大な宴会の招待」という題でポイントを四つ上げて学びましょう。
   ①安息日とクリスチャン…旧約聖書の教えから「安息日に病人の病気を癒してはいけない」という発想は無いはずなのですが、それは、ヘブル語でタナハと呼ばれる旧約聖書の他に、ミシュナー、タルムードと呼ばれる聖書以外の言い伝えがユダヤ教の中に入ってきたからです。その背景には、バビロン捕囚の反省から、エズラ、ネヘミヤ時代に当時の指導者たちが徹底して安息日を守らせたことが、後に極端な解釈へとつながったのでしょう。さて、今日のクリスチャンと礼拝について考えてみますと、安息日を厳守するという考え方は昔に比べて弱くなったかもしれません。出エジプト20章の十戒には、8つの「~してはならない」と二つの「~しなさい」があります。何もしなくても8つは守れますが、2つは行動しないと守れません。つまり、十戒全部を守るには2つの「~しなさい」を守ればよいのです。それは、第4戒の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と第5戒の「父と母を敬え」です。この二つの「しなさい」は非常に大切な戒めです。第一に、礼拝に出席する。第二に、親孝行する。この二つが祝福の出発点です。
 ②自分を低くする…人間は、人間以上でも以下でもありません。自分を大きく見せたりする必要はないし、また、他人を見下げたりすることも愚かなことです。自分に関しては謙遜であることが望ましいでしょう。イザヤ57:15には「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」とあります。人の前での謙遜も良いことですが、もっと大事なことは全能者である神の前での謙遜です。
  ③食事をふるまう…キリストは、「食事に招待するときは友人、知人、兄弟ではなく、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人を招きなさい。」と言っています。もちろん、友人、知人を招いてはいけないということではなく、お返しのできない人々を招いて、天に宝を積みなさい、という意味で語られたのです。
  ④神の国の宴会…この世の宴会なら大抵の人が集まってくるでしょうが、神の国の宴会は目に見えないものですから、今日、キリストの福音を多くの人々が無視するのと似ています。しかし、ヘブル12:22には「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」とあり、聖書のみことばで約束されている限り、必ず実現するのです。私たちは、その天の大祝会に与(あずか)ることができるように、キリストへの信仰をしっかりと保ち、それだけに止まらず、人々を神の国の宴会に招き入れる務めを果たさねばなりません。

●7月24日礼拝メッセージ要旨(ルカ13:31~35)

    「きょうもあすも進んで行く」いう題でポイントを三つ上げて学びましょう。
  ①ヘロデについて…新約聖書にはヘロデ王の名が所々で登場しますが、このヘロデ家について整理しておきましょう。キリストがベツレヘムで降誕されたとき、ベツレヘム周辺の二歳以下の男子を殺害させたのがヘロデ大王と言われる初代ヘロデ王です。ヘロデ大王の息子でガリラヤとペレヤを治めていたのがバプテスマのヨハネを殺したヘロデ・アンテパスです。彼は、異母兄弟の妻ヘロデヤを自分の妻にした人で、この章のヘロデとは彼のことです。使徒12章に出てくるヘロデ大王の孫でアグリッパ1世は、ヤコブを殺したあと、演説して民衆が「神の声だ」と言うと、虫にかまれて息が絶えてしまいます。そののち、使徒26章でパウロの説教を聞いたのはアグリッパ2世で初代ヘロデ王のひ孫になります。ヘロデ王家は約100年続きますが、第四世代ですっかり途絶えてしまいます。ヘロデ家は、血筋的にはユダヤ人ではなく、創世記に登場する双子の兄弟ヤコブの兄エサウ、すなわちエドム人が祖先で、神を恐れず、凶暴で世俗的な一族だったと言えるでしょう。ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。今日、私たちは、ヘロデのような世俗主義とは縁を切り、聖められることを追い求め、永遠の聖なる神に連なる者となりましょう。
  ②きょうもあすも進んで行く…聖なる真の神である創造主は、この天と地とそこに住む動物や人間を6日間で形づくり、7日目を休み、その日を聖であるとされました。モーセの時代には、十戒が主から与えられたとき、第四戒で「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト20:8)」と定められています。ですから、今日、私たちは、基本的に六日間働いて七日目は休むべきです。その前提に立った上で、「きょうも明日も進んで行く」とキリストが言われたことを考えてみましょう。イエス・キリストは、何のためにこの世に来られましたか。十字架にかかるためです。後にご自分を信じるすべての者の身代わりとなってエルサレムで十字架にかけられるという目標を目指して日々の働きをしておられたのです。使徒パウロは、ピリピ3:14で「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っています。
  ③ああエルサレム、エルサレム…エルサレムは不思議な町です。エルサレムは世界の主要宗教の聖地とされています。世界には、ニューヨーク、ロンドン、パリなどの大都市がありますが、世界の中心はどこか?全世界の首都はどこか?と問われるならば、なぜか、エルサレム以外にそう呼ばれてふさわしい町はないのではないでしょうか。それは、神ご自身がそのように定められたからです。その神がご自分の民の都エルサレムに来られたのに、彼らは自分たちの主である方を拒んだのです。一般的にあまり知られていませんが、最近私は、井上伊之助という人物をある記事で知りました。昔、台湾山地のタイヤル族に父親を殺された(1906年)井上伊之助氏は、1911年に、復讐ではなく、家族と共に台湾山地に医療活動と布教活動(福音宣教)に赴きました。その活動を終えて、彼が日本に帰ったあと、その山地族の間にリバイバルが起こったということです。彼の活動は、「ああエルサレム」と言われたキリストの十字架の愛が原点になっていることは言うまでもないでしょう。

●7月17日礼拝メッセージ要旨(ルカ13:18~30)

   「神の国について」という題でポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①神の国はからし種のようなもの…マタイ13:31~32には、「神の国」ではなく、「天の御国」はからし種やパン種のようなものである、とあります。神の国は天の御国にあるのですから、やがて、キリストにある者が天の御国に入ったときに、最初は小さいけれども、やがて大きくなるということが正に成就されるということでしょう。もう一つは、神の国は、キリストを信じ受け入れる人の心の中にある者ですから、この地上において、最初は小さく見えても、やがて実を結び、誰の目にも大きな存在として証しされるということです。有名な宮沢賢治氏の「雨ニモマケズ風ニモマケズ~」という詩はキリスト者の斎藤宗次郎氏をモデルにして作られたものであると言われています。キリスト教を耶蘇(ヤソ)教と言っていた時代に洗礼を受けた斎藤宗次郎氏は、受洗直後から厳しい迫害を受けます。それでもキリストに忠実に仕え続け、やがて、花巻を去り東京へ引っ越ししようと駅に着くと、町中の人が斎藤氏を見送りに来たというのです。キリストにある者は、この世において、最初は小さく見えても後の日には誰よりも大きく実を結ぶのです。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。
   ②努力して狭い門から入りなさい。…聖書で言う「救い」を得るためには、何の努力も難行苦行も必要ありません。ただキリストを信じるだけ、恵みによって得られるのです。しかし、ここで「努力して」とはどういうことでしょう。一流のスポーツ選手らは試合で良い結果を出すために日々自分の体を鍛えておりますが、キリスト者も後の日に備えて、日々、自分自身を鍛錬する必要があります。聖日の礼拝はもちろん、諸集会、そして聖書通読と祈りです。特に、注意しなければならないのは、霊的惑わしです。マタイ24:24には「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」とあり、第二テサロニケ2:11には「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。」とあって、常に聖書に親しみ、聖書の真理を悟っていない人は、簡単に偽りに惑わされてしまい、本来の信仰も失ってしまうでしょう。ですから、そういう意味において、日々、努力して自分自身を霊的、信仰的に鍛錬する必要があるのです。
   ③あとの者が先になる…私(筆者)は、1976年6月6日に洗礼(バプテスマ)を受け、今年で満40周年となりました。信仰生活40年を過ごす中で、多くのキリスト者に出会い、その信仰生活を見聞きしているのですが、「あとの者が先になる」ということばは正に真実です。何年も何十年も信仰生活を送っている人よりも、受洗後、間もない人が誰よりも信仰熱心だったりするものです。もちろん、人それぞれ、賜物や召しがあり、大抵、牧師や伝道者に召されている人は熱心です。いずれにしましても、キリスト信仰に対して冷めていてよいはずはありません。何はともあれ、神の国を求めて(ルカ12:31)まいりましょう。

●7月10日礼拝メッセージ要旨(ルカ13:1~17)

   「ぶどう園の番人」という題でポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①災難の原因…何か災難を被ったとき、おもに自分に対してですが「心掛けが悪かったから」などと言うことがあります。因果応報、悪い原因があるから悪い報いを受けるという万国共通の考え方です。しかし、キリストは、「そうではない。わたしは、あなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言われました。大事なことは「悔い改める」ことです。ギリシャ語原語で悔い改めるはメタノイアです。元の意味は心を変える、方向転換をすることです。今、私たちはどこに向かって生きているでしょうか。もし、滅びに向かっているとしたら、直ちにイエス様を心に迎え入れ、永遠の神の国に向きを変えなければなりません。
   ②ぶどう園の番人…ある人がぶどう園にいちじくの木を植えて、実を取りに来たのですが、実が成っていないので、「切り倒せ」と命じました。しかし、ぶどう園の番人は、「もう一年待ってください。木の回りを掘って肥しをやってみます。それでも駄目なら切り倒してください。」と言いました。このたとえは何を意味しているのでしょう。神のあわれみではないでしょうか。第二ペテロ3:9には「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。真の神は憐み深く忍耐深い方です。私たちも、その神の性質をいただいて憐み深く忍耐強くありたいものです。
   ③安息日に病をいやす…キリストが安息日に会堂で、腰の曲がった女性の病をいやされます。すると会堂管理者は、「安息日にいやしてはいけない。」と言います。するとキリストは、「偽善者たち。あなたがたは安息日に牛やろばに水を飲ませるではないか。安息日だからと言って、サタンの束縛を解いてはいけないのか。」と言われました。元々、安息日は人のためにあります。また、神のみこころは、私たちが健やかであることです。ですから、私たちは、時々、病の人がいたら、その人の回復の為にお祈りするとよいでしょう。一方で、各自、自分の健康管理も必要です。適度な運動、睡眠、栄養、健全な生活を心掛けましょう。そうかと言って、私たちは、この地上に永久に留まるわけではありません。やはり限界があります。しかし、第二コリント5:1には「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」とあります。さらに、第二コリント4:16には「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とありますから、無駄(?)な若返りなどはほどほどにして、内なる人は日々新たにされているのですから、そちらの方に目を留めて、益々、希望と喜びをもって過ごしましょう。

●7月3日礼拝メッセージ要旨(ルカ12:49~59)

7月3日礼拝メッセージ要旨(ルカ12:49~59)

   「この時代を見分ける」という題でポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①地に火を投げ込む…ここでキリストは、地に火を投げ込むため、平和のためではなく分裂を与えるために来た、と言っておられますが、どういうことでしょう。本来、キリストは多くの人の救いのために十字架にかかるために来られました。キリストを信じ心に迎え入れるなら、心の中に平和が与えられ、その人は、その平和を他の人にも分かち合うようになります。それなのに、この火とか分裂とか、どういうことでしょう。これは「所属」のことを言っています。キリストを信じた者は聖なる創造主の所属に入ります。この創造主の所属に入ると、これまで所属していた世界と分離することになります。ということは、創造主に所属する前まではどこに所属していたのでしょう。エペソ2:1~2には「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」とあり、創造主に敵対する霊、すなわち悪霊の配下にあったということになります。ですから、同じ家族でも所属先が違えば、当然、そこに霊的な分離状態になります。しかし、創造主に属する者は、以前に増して家族を大切に思い、家族の救いを祈るようになります。
   ②時代を見分ける…今、世界的な傾向として、どこの国においても民族主義が台頭するような時代になっています。キリストが2000年ほど前にマタイ24:7で「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり…」と預言された通りです。当時、キリストが「時代を見分けなさい」と言われたのは、そういった政治的な問題というよりも、「真理を見分けなさい」あるいは「真理を見いだしなさい」という意味で言われたのでしょう。ヨハネ14:6でキリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。また、エペソ4:21には「まさしく真理はイエスにあるのですから」とあります。私たちは、今のこの時代を見分け、真理であるイエス様のうちを歩みましょう。
   ③和解するよう努める…私たちは、生活する上での様々な場面で、相手を責めたくなるような事がよくあるものです。しかし、どんな時でも争うことなく和解するよう努めるべきです。使徒16章で、パウロとシラスは、自分たちの宣教の働きを妨げている女から占いの霊を追い出したことにより、その女の主人から訴えられ、牢に入れられました。足かせをはめられた二人は、真夜中に、祈りつつ賛美していると大地震が起こり、牢の扉が開いてしまいました。困ったのは看守で、自分への責任追及を恐れて自害しようとしました。パウロは、それを止め、主イエスを宣べ伝え、看守を救いに導きました。キリスト者には、あらゆる機会とあらゆる人々に対して、イエス様による和解の務め(第二コリント5:18)が求められているのです。

●6月19日礼拝メッセージ(ルカ12:35~48)

   ルカ12:35~48から、「忠実な賢い管理人」という題で、3つのポイントをあげて学びましょう。
   ①目をさましていなさい。…私たち人間は、健康な体を維持するためにしっかりと睡眠をとることが必要ですが、ここで「目をさましていなさい」とは、聖なる神の前に霊的に眠っていてはいけない、つまり、的外れな生き方をしてはいけないということです。2000年前に十字架で死んで復活し、天に帰られたイエス・キリストがやがて、この地上に帰ってくる再臨のときが近づいています。そのとき、霊的に眠っていたら大変なことになります。霊的に目覚めた状態を保ちつつ、今与えられている機会を生かし、神のわざに励んでまいりましょう。
   ②忠実な賢い管理人…ここ数週間の間、都知事に関するニュースで賑わいました。都知事と言えば非常に大きな組織の管理人でもありますが、その職務を忠実に行なうことが求められています。6月18日には沖縄から上原令子さんが来られてコンサートが行なわれました。上原さんは、もう40年以上にわたってオリジナルのゴスペルソングを歌い続けていますが、与えられた賜物を生かし、忠実に神に仕えています。正に、ご自分の使命に対し、忠実な賢い管理人と言えるでしょう。史上、最も忠実な賢い管理人は誰でしょうか。やはり、イエス・キリストではないでしょうか。私たち信じる者の救いの為に十字架の道を最後の最後まで忠実に歩まれました。
   ③多く任された者は多く要求される…マタイ25章には、天の御国のたとえが記されています。ある人が、しもべたちに能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを預けました。主人が帰ってくると、5タラント預けたしもべは5タラント儲けました。2タラント預けたしもべは2タラント儲けました。彼らは二人とも「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と、主人に褒められました。ところが、1タラント預かったしもべは、それを地に隠しておいたので、主人にひどく怒られて、持っていた1タラントも取り上げられてしまいました。今日、私たちは、それぞれに与えられた賜物に応じて忠実に働くことが求められています。特に、キリストを信じる信仰者は、言葉の使い方に気を遣わなくてはなりません。民数記13章には、シナイ半島のパランの荒野から、カナンの地の偵察のために12人の族長たちが遣わされました。カナンの地は乳と蜜の流れる非常に良い地だったのですが、10人の族長たちは、カナンの住人を恐れ「そこを攻め上れない。」と言いました。しかし、カレブは「ぜひとも上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言いました。結局、「だめだ。できない。」という声が勝り、そのためイスラエル人は荒野で40年の間さまようことになりました。今日も同じです。不信仰な言葉は全知全能の神を喜ばせることはできません。私たちは、「大丈夫。できる。」と、信仰の告白を常に保ち、与えられた賜物を主に用いていただきましょう。