●6月5日礼拝メッセージ(ルカ12:1~12)

   「恐れなければならない方」という題で、4つのポイントをあげて学びましょう。
   ①真実は明らかにされる…すぐに見破られてしまうような嘘は、それほど問題ではありませんが、多くの人々に真実だと思わせているような嘘ほど厄介なものはありません。テレビのニュースなどは、一般的には真実が伝えられているように見えるのですが、微妙に真実が歪められて報道されている場合もありますので、私たちは、真実を見極める「目」が必要です。特に、日本の国は、昔から八百万の神々がいると言われておりますが、人の手によって作られた神々がどうして人を祝福するができるでしょう。イザヤ42:17には「彫像に拠り頼み、鋳像に、「あなたがたこそ、私たちの神々。」と言う者は、退けられて、恥を見る。」とあります。真実が明らかにされるときは必ず来ます。
   ②恐れなければならない方を恐れる…キリスト教の影響を受けた欧米諸国では「神以外のものは恐れない」という言い方をよくしますが、偶像崇拝が盛んな国、日本においては、「神をも恐れない」と言っても通用してしまいます。なぜなら、偶像の神々は人の手で作られた単なる物質に過ぎないからです。しかし、聖書が示している創造主である全知全能の唯一の神は、人をゲヘナに投げ込むことが出来る権威を持っておられ、また、おまけで売られているような一羽の雀でさえも、目を留めておられます。また、私たち人間の髪の毛の数も知っておられます。この方を恐れないで誰を恐れるのでしょう。但し、「神を恐れる」と言っても、神を信じる者は神の前にビクビクする必要はありません。真の神は慈しみ深い方であり、私たちに絶対的な安心を与えてくださる方です。この世に生きている限り様々な煩いを避けて通ることはできませんが、この方が共におられるならば、何も恐れることはないのです。
   ③人を恐れない…人を恐れ、人の目を気にして、キリストを信じる信仰を告白できないでいるとしたら、それほど大きな損失はありません。箴言29:25には「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人は他人の信仰に対して、それほど関心を持ってはいません。自分で勝手に恐れているだけなのです。むしろ、大胆にキリストを信じる信仰を告白することによって勝利を得るものなのです。
   ④聖霊に従う…「聖霊をけがす者は赦されない」とはどういうことでしょうか。キリストに対して徹底的に逆らい、キリストのわざを悪霊のかしらによるものであると言って侮辱したパリサイ人たちの態度のことです。私たちは、むしろ、聖霊に従いましょう。聖霊がともにおられるなら、苦難のときにも聖霊が助けてくださるのです。

●5月29日礼拝メッセージ(ルカ11:37~54)

   ルカ11:37~54から、「内側と外側」という題で学びましょう。キリストが、パリサイ人の家に食事に招かれたとき、キリストがきよめの洗いをしないのを見て、そのパリサイ人が驚いていると、キリストは「あなたがたは、外側はきよめるが、内側は強奪と邪悪とでいっぱいです。」と言われました。パリサイ人らは表向きでは、神に従うように見えても、その実態、内側は神に逆らう歩みをしていたのです。また彼らは、会堂の上席や市場で挨拶されることが好きで、彼らの教えは、却って人々を汚れさせていました。人々には負い切れない荷物を背負わせ、自分はその荷物に指一本さわろうとしませんでした。そして、旧約時代に預言者たちを殺した先祖たちと同じように、目の前にいる聖なる神の御子イエス・キリストを十字架に架けて殺そうとしていたのです。
   さて、言うまでもなく、私たちは、このようなパリサイ人、律法学者のようであってはなりません。彼らのようにならないためには、まず、内側がきよくされなくてはなりません。内側をきよくするとはどういうことでしょうか。聖なる神の前に悔い改めることです。永遠の滅びに向かっている魂を天国に方向転換することです。そのために、私たちの罪の身代わりに十字架で罰を受けてくださったイエス・キリストを心に迎え入れることです。
   内側がきよめられたら、今度は内側が強められることが求められます。そのためにはどうしたらよいでしょうか。聖書のみことばをよく読み、祈りに励むことはいうまでもありませんが、聞いたみことばを実行することが大事です。私たちは、人が幸せになるため、人が祝福を受けるために何ができるかを主から教えていただいて、それを実践できると幸いです。

●5月22日礼拝メッセージ(ルカ11:27~36)

   ルカ11:27~36から、ポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①幸いな人とは?…群集の中から一人の女性が声を張りあげてキリストに対し「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」と言うと、キリストは「いや、幸いなのは、神のことばを聞いて、それを守る人たちです。」と答えられました。確かにキリストの母となったマリヤは特別に選ばれた人には違いありませんが、私たちと同じようにアダムとエバの罪を受け継いだ罪人です。罪人である限り、神のことばに聞き従わなければ永遠の滅びの刑罰が待っているだけです。やがて、神の審判の前に立ったとき、家柄、地位、名誉、財産等々、そういったもの自体は、何の役にも立ちません。最も幸いなことは、神のことばを聞いて、それを守ることです。
   ②ヨナのしるし…ヨナのしるしとは何でしょう。ヨナは神から、ニネベに行って宣教するように命じられましたが、ニネベに行かないでタルシシュ行きの船に乗り込みました。当時ニネベを首都とするアッシリヤはイスラエルの敵国であり、イスラエルに脅威を与えていました。ヨナがニネベに行きたがらないのも理解はできます。しかし、どんな理由があれ、聖なる神の命令には聞き従わねばなりません。神は、ヨナの行く道を遮り、暴風を起こしました。結局、ヨナは海に投げ込まれます。しかし、神は大きな魚にヨナを飲み込ませて、陸地へ吐き出させます。ヨナは魚の腹の中で三日三晩苦しみます。その数百年後に、イエス・キリストが十字架で死なれ、葬られて、死後、三日目に復活します。つまり、ヨナのしるしとは、キリストの十字架と復活です。ヨナがニネベで叫ぶと、ニネベの人々は悔い改めました。ソロモンの時代に、南の女王はソロモンから神の知恵を聞くために地の果てからやってきました。「しるしを見たら信じてやる」という態度ではなく、キリストの十字架を中心とする神の言葉を謙遜に聞くという姿勢が祝福を受けるのです。
   ③部屋の明かり…部屋の中で、灯した明りをわざわざ隅っこに隠すように置く人はいません。部屋全体が明るくなるように目立つところに置きます。キリストは「わたしは世の光です。(ヨハネ8:12)」と言われました。世の光であるキリストがそこにおられるのに、それを避けることは賢明ではありません。キリストのことばが綴られている聖書を部屋の隅に置いておいて、一週間全く読まないとすれば何と、もったいない事でしょう。詩篇119:105に「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。」とあるように、キリストに従うこと、すなわち、聖書のことばをよく読んで、みことばに聞き従う人は、神の知恵に満たされ、祝福の道を進んで行けるでしょう。

●5月15日礼拝メッセージ(ルカ11:14~26)

   ルカ11:14~26から「霊の世界」という題で、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①霊の存在…キリストが、ある人から悪霊を追い出していると、ある人々は「彼は悪霊どものかしらであるベルゼブルによって悪霊を追い出している。」と、批判しました。するとキリストは、「どんな国でも分裂したら立ち行かない。サタンがサタンを追い出すことなどありえない。」ということを言われました。そもそも、現代における世の一般常識においては、この世界に悪霊というものの存在を認めていないでしょう。ところが、新約聖書の四つの福音書では、キリストが悪霊を追い出している場面が頻繁に見られます。悪霊など存在しないならば、聖書が間違っていると言わざるを得ませんが、聖書が正しいとすれば、これをどのように受け止めればよいのでしょうか。毎日のように、殺人事件のニュースを耳にします。最近は、余程でないと事件を大きく取り扱うことがなくなりました。加害者の動機が理解しがたい事件が多くなりました。ごく普通の人間であるはずの人がなぜそんなことまでするのか、何の得があると言うのか、と誰もが考えるでしょう。そういった個人が引き起こす事件の他に、大がかりに組織的に行なわれるものもあります。正に、狂気の沙汰と言わざるを得ないでしょう。聖書は、初めから、その背後にあって働く悪霊の存在を指摘しています。エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。私たちは、人間の力を超えた敵対する霊の存在を認め、そこに焦点を当てていくべきなのです。
   ②霊的世界の構造と法則…悪霊どもは、勝手に人の心の中に入ってくるということはありません。その人が悪霊に対して心を開くとき、侵入してきます。悪霊に対して心を開くとはどういうことでしょう。悪霊が心の中に侵入してくる窓口がガラテヤ5:19~21にあると言えるでしょう。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、等々、人が罪を犯すとき、そこに悪霊の侵入口が開くのです。ですから、私たちは、むしろ、聖霊にたいして心をひらき、心の中を聖霊で支配していただきましょう。聖霊が支配する人の心は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)があります。
   ③心の家を留守にするな…アメリカの某大学で長年「しあわせ」についての研究がされました。人はどういう場合に幸せを感じるか。答えは単純明快、「良い人間関係を保つこと」なんだそうです。また、良い人間関係を維持するためには、相手に対して柔軟性を持つことなのだそうです。心を聖霊で支配していただき、聖霊の力によって、寛容な心、柔軟な心が与えられるでしょう。昔、五旬節の日、待ち望み祈っていた人々に聖霊が降ったように、今日、教会が主に祈り求め、聖霊に満たされ、聖霊に遣わされてキリストの証人とされましょう。

●5月8日礼拝メッセージ(ルカ11:1~13)

  「祈りを教えてください」という題で、ポイントを三つあげて学びましょう。
 ①主の祈り…弟子の一人がキリストに「祈りを教えてください。」と願うとキリストは、今日、「主の祈り」として祈られているマタイ6:9~13からの祈り方とほぼ同じ内容「御名が崇められますように。御国が来ますように。日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも人の罪を赦します。試みに会わせないでください。」と教えられました。とかく、私たち人間は、自己中心に陥りやすいものです。私たちの行なったことの結果が、主の御名が崇められるようであるなら、それ以上の幸いはないでしょう。また、この地上に天の御国のような平和と祝福があるならば、それ以上のことはありません。そして、毎日の生活のための必要も求めます。次に、罪の赦しを求めるときには自分自身も誰かの罪を赦すことが大前提です。人を憎んでいたら、自分も赦されることはありません。最後は、試みに会わないよう祈る。第一歴代誌4:10で、ヤベツという人は、自分の祝福と災いが及ばないように求めると、神はその願いをきかれました。私たちは、この祈り方、あるいは主の祈りを自分のものとして、おおいに祈り求めましょう。
 ②求め続ける…祈りの要素の中に不可欠なことは、あきらめないで祈り求め続けることです。当つばめさわ教会会堂は満5年で完成に至りました。私自身、振り返ってみますと、あきらめたことはありませんでした。当会堂には立派な長椅子と素敵なステンドグラスも入っています。私はそれらのものにそれほど関心はありませんでした。しかし、ある方は、熱心にそれらの必要を訴えておられました。その熱意があってこそ、長椅子もステンドグラス備えられました。今では、私自身もそれを喜んでいます。求め続け、探し続け、たたき続けることです。
 ③良いものをくださる…創世記に、イサクの子であるエサウとヤコブの兄弟が出てきます。エサウは肉的な人で世のものを求める人でした。ヤコブは霊的なものを求める人でした。結果的にヤコブがイサクからの長子の権利を得、大いなる祝福を受け継ぎました。日常生活の中で、争わずに何かを人に譲ることは素晴らしいことですが、永遠の霊的祝福は、むしろ貪欲に求めるべきです。旧約聖書に出てくるヒゼキヤ王は、アッシリヤの大軍が攻めてきたとき、必死に祈り求め、その結果、主の使いによって18万5千人のアッシリヤ軍が倒れました。その後、ヒゼキヤは病気になり、預言者イザヤを通して「あなたは死ぬ。直らない。」と言われた時も、泣きながら祈り求め、その結果、15年生き長らえました。その後、後の時代になってから、ユダの国がバビロン捕囚となる日が来ることを知らされたとき、ヒゼキヤは「主のことばはありがたい。」と言って、それ以上求めることはしませんでした。天の神様は、私たちに良いものを下さる方です。私たちは、何もはばかることなく、主に良いものを求めましょう。最も良いものは聖霊様です。全知全能の主が共にいる、それに勝ることはありません。

●2016年5月1日礼拝メッセージ(ルカ10:25~42)

  「隣人を愛する」というテーマで、ポイントを三つあげて学びましょう。
  ①神と人とを愛する…ある律法の専門家が「何をしたら永遠のいのちを自分のものとすることができるでしょうか。」とキリストに質問します。するとキリストは「律法には何と書いてありますか。」と逆に質問します。それに対して律法の専門家は「神を愛し、隣人を自分自身のように愛すること。」と答えます。この神と人を愛するということは、私たち人間の生き方の根幹として、非常に大事なことです。日本人の多くは、進化論教育によって創造主である神の存在を認めていません。そもそも人間は、偶然に自然発生したのではなく、創造主によって形づくられ、生かされています。創造主を無視することは、子が親を親とも思わないここと同じです。創造主である神を恐れ、この方を礼拝することは、人間にとって当然の姿です。但し、その創造主である神だけ礼拝していればよいというものではありません。目の前にいる人、家族、友人、知人、その他の人々を大切に思い良い関係を築いていくことも同じくらい大切です。神と人を愛する。聖書は、その両輪が備わった生き方をすることを教えています。
  ②隣人となる…律法学者がキリストに「隣人とは誰のことですか?」と質問すると、キリストは「良きサマリヤ人」のたとえ話をします。強盗に襲われて瀕死の人を見て見ぬふりをして通り過ぎたのは祭司、レビ人でした。しかし、助けたのは当時のユダヤ人が嫌うサマリヤ人でした。キリストが「三人のうち誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか?」と質問すると、律法学者は「その人に憐みをかけた人です。」と答えました。するとキリストは「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。東日本大震災後、多くのクリスチャンボランティアが被災地を訪れ何らかの活動をして行かれました。そのとき、被災された方たちに福音を伝えるか否かということが取りざたされました。もちろん、伝えるべきなのですが、状況によっては微妙な問題がありました。やはり、まず相手のニーズに応えるべきであるという結論が大勢を占めました。当教会会堂の間取りもそのあたりを意識して、入り口付近にカフェコーナーを設けました。福音を語る前に、まず、一人の人間として、その人と良い関係を築き信頼を得なければなりません。
  ③優先順位…自分の家にキリストをお迎えしたとき、姉のマルタはもてなしのために忙しくしていました。一方、妹のマリヤは、キリストの側にいて熱心に話を聞いていました。そんな妹を見てイライラしたマルタは、キリストに、妹が自分の手伝いをするようにと訴えますが、キリストは、「どうしても必要なことはわずかです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」と答えられました。私たちは、案外、どうでもよいことを優先し、本当に大切なことを後回しにしてしまったりするものですが、良く祈り、キリストと心を一つにして、正しい優先順位をもって日々行動したいものです。

●2016年4月24日礼拝メッセージ要旨(ルカ10:17~24)

  キリストが、70人の弟子たちを派遣したあと、彼らは、その働きが成功し、喜んで帰ってきました。その記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①喜びの源…私たち人間は、日々の生活の中で事がうまく行くと自然に喜び、また、失敗したり、思うように事が運ばないと心が暗くなるものです。つまり、外側で起こる現象により、喜びが湧き上がったり消えたりするものです。もう一つの喜びがあります。その喜びは、何があっても消えない喜びです。そんな喜びはどこにあるのでしょう。草は枯れ、花は散ります。しかし、聖書のことばは永遠に変わることがありません(第一ペテロ1:24~25より)。変わらない永遠の喜びは、聖書のことばの中にあります。神の御子イエス様が十字架によって救いを完成され、イエス様を信じる信仰による消えない喜びが与えられるのです。私たちは、その永遠の喜びを是非、自分のものとしましょう。
  ②何を喜ぶべきか…70人が喜んで帰ってくると、イエス様が「ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われました。天においては、いのちの書というものがあります。この、いのちの書に名が記されているか否かでは非常に大きな違いがあります。いのちの書に、その名が書き記されている人は、神の子としての特権が与えられ、この地上においては特別扱い(詩篇4:3)を受け、日々の様々な祈りをかなえていただけます。また、天上においてはイエス様を兄貴分として、永遠の富を共同相続するのです。(ローマ8:17)それが具体的にはどういうことなのか想像できません。でも、想像できなくてよいのです。想像をはるかに超えた事が待っているのです。それは、そのときはっきりと知ることになるのです(第一コリント13:12)。
  ③喜びは誰に与えられるか…イエス・キリストの父なる神を知るということは、海を見たり、山を見たりして、それを認識することとは異なります。「賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わした」とあります。ここで言う幼子とは、自分を低くして素直に神のことばを受け入れる人のことです。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。人の前に謙遜であることは良いことですが、それ以上に創造主である真の神の前に謙遜であることが大事です。神の前に謙遜であるとは、聖書のみことばに対して従順であるということです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(ヤコブ4:6)のです。

●2016.4.10礼拝メッセージ(ルカ10:1~16)

   ルカ10:1~16から、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①収穫のための働き手…ここで言う収穫とは、畑の作物の収穫のことではなく、人のたましいの救いのことを言っています。天地創造の真の神様は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。聖書(キリスト教)が語っている中心的なことは、イエス・キリストの十字架と復活です。私たち一人一人は、そのことを信じ受け入れて、自らの救いを達成し、そして今度は、この地上において、それぞれの使命に生きることです。一番大事な使命、それは「隣人を愛すること」です。人に優しくしたり、良いものを分かち合うことも素晴らしいことですが、自分がイエス様による救いを得たように、隣人にも福音を証しし、収穫のための働き手となりましょう。
   ②平安を祈れ…道であいさつしてはいけないとはどういうことでしょうか。油を売ってはいけない、余分なことに力を使うな、ということでしょう。「平安を祈る」とは、祝福の言葉を語る、福音のメッセージを語る、ということでしょう。祝福のことばを語ったとき、平安の子(救いを受け取る人)がいたら、祝福がその人に及び、いなかったら、祝福が、語った本人に返ってきます。ですから、福音のメッセージを持っているクリスチャンはいつでもどこでも、それを語らなければなりません。第一ペテロ3:9を見ますと「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。
   ③ああコラジン、ああベツサイダ…コラジンとベツサイダはガリラヤ湖の北岸にある町です。イエス様が「ああ」と嘆かれるということは、イエス様を受け入れることなく拒んだのでしょう。誰であれ、耳触りの良い言葉を聞きたいものです。しかし、聖書は、最後の審判があるということを明確に語っています。ヘブル9:27には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。その死後のさばきを免れることができるようにイエス・キリストが身代わりに十字架で罰を受けてくださったのです。このイエス様、あるいはイエス様から遣わされた人を拒むことは、全知全能の神の救いを拒むことになるのです。もちろん私たちは、神のさばきの前に出るのではなく、むしろ、天の大祝会にあずかる者とならせていただこうではありませんか。

●3月27日礼拝メッセージ要旨(第一コリント15:50~58)

   イースター(復活祭)に因んで「死は勝利に飲まれた」という題でのお話しです。第一コリント15:50~58からポイントを3つあげて学びましょう。
   ①私たちは変えられる…私たち人間は、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、そして、やがては死を迎えます。しかし、聖書を見るときに、死で終わらない復活のからだ、永遠のいのちを持つことができる希望があるのです。創世記に登場するヨセフは兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまいました。兄たちは、父ヤコブに、ヨセフは獣に殺されたと嘘を言い、ヤコブはそれを信じていました。長い年月が過ぎたある年に、飢饉のために兄たちはエジプトに食料を買いに行きました。ところが、エジプトで実権を握り食料を管理しているのは弟のヨセフだったのです。兄たちは国に帰り、そのことを知らせると、ヤコブはぼんやりしていて、それが何のことか分かりませんでした。しかし、エジプトから送られたヤコブが乗るための車を見て、ヤコブは元気づいたのです。今日、「復活」と聞いても、ぼんやりしている人がいるかもしれません。復活、それは決してありえないことではなく、現実的に起こることで、私たちはそのことを信じるべきなのです。
   ②死は勝利に飲まれた…「死ぬ者は不死を着なければならない」とありますが、不死を着るとはどういうことなのでしょう。私たちは、人間中心社会に生きています。人間を第一にして、創造主である神を除外します。人間の都合を優先し、神の定めた律法を無視します。神の定めた道を外れ、自分勝手な道を進むことが「罪」であり、聖書は「すべての人が罪を犯した」と言っています。しかし、神は、御子イエス・キリストによる十字架の救いの道を開かれました。そこで、不死を着るとは、人が、神の前に自らを罪人であることを認め、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れることです。そのとき、死は勝利に飲まれたというみことばが成就するのです。
   ③いつも主のわざに励みなさい…イエス・キリストを信じる生活は、言葉には言い尽くしがたい祝福があります。しかしながら、その信仰生活に戦いを挑む勢力もあり、油断大敵です。ですから15:58節で「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」と言っています。私たち一人ひとり、きょう何をすべきか、何ができるか、主の喜ばれることな何かを見極め、天に宝を積む者となりましょう。

●2016.3.20礼拝メッセージ要旨(ルカ9:51~62)

   ルカ9:51~62から、「御顔をまっすぐ向け」という題で、ポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①御顔をまっすぐ向け…イエス・キリストは、何のためにこの世に来られたのでしょう。人々を教え、病をいやし、死人を生き返らせ、パンの奇跡を行ない、湖の上を歩き、嵐を鎮めました。しかし、それらはイエス様がこの世に来られた究極的な目的ではありません。イエス様は、エルサレムにおいて十字架で殺されるために来たのです。それはイエス・キリストを信じるすべての人の罪の身代わりに十字架で罰を受けるためでした。イエス様は、その目的のためにサマリヤ経由でエルサレムに向かって行ったのです。ところで、私たちはどうでしょう。人生の究極目標をどこにおいて歩んでいるのでしょうか。この地上における偉大な目標を持っていたとしても、最後は墓場です。結局、墓場を究極目標とする人生となってしまいます。確かに肉体は墓場に埋葬されますが、霊魂は永遠に生き続けます。永遠をどこで過ごすのでしょう。イエス様の十字架の救いを信じて、罪赦され、神の子とされ、永遠の天の御国を究極目標とする人生に変えていただこうではありませんか。
   ②どこにでもついて行きます…イエス様のあとをどこにでもついて行くと言った人に対し、イエス様は「人の子には枕するところもない」と言われ、暗に、自重を促しています。ペテロも、捕らえられる前のイエス様に対し、「私は決してあなたにつまずきません」と言ったのですが、結果は、三度も「知らない」と言ってしまいました。マタイ5:37には「誓ってはいけない」とあります。私たちは、大口やホラを吹くことはないよう気を付けなければなりません。そうかと言って、あまり小さく固まりすぎてもいけません。マルコ16:15には「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を述べ伝えなさい。」とありますから、大きく世界に目を向けつつ、それぞれに与えられた使命に忠実であるべきです。
   ③うしろを見ない…今度は逆に、イエス様は別の人に「わたしについてきなさい」と言われると、その人は「父を葬ることを許してください。」と言います。すると「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われます。これは、葬式をしなくてよい、ということではなく、優先順位のことを言っているのでしょう。イエス・キリストを信じて従う者は、うしろを振り返るべきではありません。この道をまっすぐ進んでいくのです。真理は永遠に変わることがありません。変わらない真理の道にふさわしく、一心に変わることなく、イエス様を信じ続けてまいりましょう。