●2月21日礼拝メッセージ要旨(ルカ9:18~36)

  ペテロの信仰告白、イエス様ご自身の十字架と復活、そして十字架を負うこと、また山に上られてお姿が変わった記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①わたしをだれだと言いますか…イエス様が「わたしをだれだと呼びますか。」と質問したとき、ペテロは「神のキリストです。」と答えました。キリストとは、称号であり、ヘブル語でメシヤをギリシャ語訳したことばです。「油注がれた者」という意味があって、事実上の救い主です。ペテロは、イエス様にイスラエルを復興させる政治的メシヤとしての期待を持っていたのでしょうが、イエス様は、そうではないということを悟らせるためにご自分が十字架にかかり復活することを話されます。今日、私たちはイエス様をだれだと呼びますか。トマスは、最初イエス様が復活したことを疑っていましたが、主にお会いすると、「私の主。私の神。」と言いました。私たちの人生の主人は誰でしょうか。自分自身でしょうか。それとも、物言わない偶像でしょうか。私たちは、私たちを形造り、生かしておられ、救いのために十字架で犠牲となられ、復活したイエス様を主として、従ってまいりましょう。
  ②日々、自分の十字架を負う…私たちの人生の目標は何でしょうか。世界の征服者でしょうか。それとも世界一の億万長者でしょうか。たとい、そのような者になったとしても「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い損じたら、何の得がありましょう。」とイエス様が言われたとおりです。主は、私たちが空しい人生を送ることがないよう、真に意義ある人生を送ることができるように「日々、自分の十字架を負いなさい。」と言われたのです。
  ③彼の言うことを聞きなさい。…ペテロとヨハネとヤコブを連れて山に上られたイエス様は、祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝きました。これは、本来のイエス様のお姿に戻ったと言えるでしょう。そして、モーセとエリヤが現われました。ペテロは、そのとき何を言ってよいのか分からず、三つの幕屋を作りましょうと言ったのですが、雲の中から「これはわたしの愛する子、私の選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。私たちは、それぞれ、この人生において何をすればよいのでしょうか。イエス様が「しなさい」と言われることを忠実にすればよいのです。また、キリストのからだなる教会単位としても同じです。立派な教会堂が完成しました。それは、教会としての使命を果たすために建てられました。もちろん、私たちは、主にあって喜び楽しみながら、イエス様の御声を聞いて従ってまいりましょう。

●2月7日礼拝メッセージ要旨(ルカ9:1~17)

   キリストが12人の弟子を宣教に遣わされた記事、ヘロデ王がキリストのうわさを聞いて当惑した記事、5つのパンと二匹の魚で5000人が食べて満腹した記事、その三つの記事から3つのポイントでお話ししましょう。
 ①神の国を宣べ伝える…この時点では、まだキリストは十字架にかかる前です。ですから、まだ本来の福音宣教とは言えないのかと思いますが、初代教会が始まるための訓練だったとも言えるでしょう。ここで特に注目したいのは、「旅のために何も持って行かないように」という点です。私は3.11大震災で持ち物のほとんどを失いましたが、今はまた沢山の物を持っています。引っ越しなどをすると、逆にその持ち物で不便さえ感じるものです。第一テモテ6:8には「衣食があればそれで満足すべきです。」とありますが、キリスト者としての私たちは、この世に遣わされた主の証人であることを自覚して持ち物に振り回されないようにしたいものです。1節には最初から「悪霊を追い出し」とあります。なぜ、いきなり「悪霊」なのでしょう。今、この世は一時的に悪魔の支配下にあります。この世の基準は聖書ではありません。この世の考え方が基準であり、それは悪霊から出ていることが多いのです。私たちは、悪魔の策略を見抜き、聖霊の力によって聖書のみことばに基づいた神の国を証ししていきましょう。
 ②ヘロデの当惑…ヘロデは、キリストのうわさを聞いたとき、バプテスマのヨハネが生き返ったと聞いて当惑しました。元々、ヘロデがヨハネを殺したのは自分の誕生祝いの席で滑らした軽口が原因でした。自分の肉の欲に従うとき、肉から滅びを刈り取ることになります。私たちの行動の基準は聖書のみことばです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光りです。(詩篇119:105)」
 ③問題の解決…ガリラヤ湖に流れ込むヨルダン川の東岸ベツサイダに退いたつもりのイエス様一行を追って群集が集まりました。しかし、イエス様は彼らを喜んで迎えました。時間も過ぎ、人里離れた地で、五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちの人生においても、常に、と言ってよいほど、何かしらの問題があるものです。でも、その問題の解決や困難を乗り越えようとするときにこそ、神の栄光が現われ、私たちもまた神に近づくことができるのではないでしょうか。3.11大震災後、私は、会堂建設に関して、そんな感じを味わってきました。一言で言えば、問題があると、「祈って待つ」でした。私たちの罪の身代わりに十字架で死んで復活したイエス様は、私たちが持つ最大の問題である「罪と死」を解決してくださったのですから、どんな問題も、この方にお願いしましょう。

●1月24日礼拝メッセージ要旨(ルカ8:40~56)  

●1月24日礼拝メッセージ要旨(ルカ8:40~56)
  会堂管理者ヤイロの娘が生き返った記事、また、その記事の合間に12年長血を患った女性がいやされた記事の二つから、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①あなたの信仰があなたを直した…ヤイロは、自分の12歳の娘が死にかけていて、イエス様に来ていただきたいと願いました。そこで、イエス様一行と群集とが、ヤイロの家に向かう途中で、12年の間長血を患った女性が、「お着物にでも触ればきっと直る」との思いで、イエス様のうしろからイエス様の着物のふさに触ったところ、たちどころに癒されました。すると、イエス様が「わたしに触ったのは誰ですか?」と言われると、女性は、隠しきれないと思って、震えながら、事情を話しました。そこでイエス様は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。彼女を直したのは、イエス様であり、真の神様に違いないのですが、それだけではなく、彼女の信仰がイエス様から来る癒しの力を引き出したのです。ヘブル11:6には「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」とあります。無から有を生み出す神の力を信じ、主の栄光が現われることを求めて、積極的にイエス様に期待して求める者となりましょう。
   ②恐れないで、ただ信じなさい…イエス様一行とともに、娘を直していただこうとして自分の家に向かっている途中のヤイロのもとに、「お嬢さんは無くなりました」という知らせが届きました。ヤイロは、目の前が真っ暗になるような思いだったことでしょう。娘の回復をひたすら望みつつ、イエス様に来ていただこうとしたものの、それがプツンと断ち切られたのですから。しかし、そこでイエス様は、「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。真の神を信じる信仰に欠かせないものは、少々のことでくじけないで信じ続ける忍耐心です。ヤコブ1:3~4には「信仰がためされると忍耐が生じるということをあなたがたは知っているのです。その忍耐を完全に働かせなさい。~」とあります。
   ③信仰の一致…ヤイロの家に着いたイエス様は、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの両親以外は家に入らせませんでした。なぜでしょう。たぶん、不信仰を除外したのでしょう。イエス様は、ご自分の郷里ナザレにおいては力あるわざを何一つなさいませんでした。それはそこに不信仰が蔓延していたからです。私たちの教会も信仰の一致をもって進みましょう。一致する、一つになるということは、同じになるということとは違います。一人一人個性豊かな、世界にたった一つの花(?)です。互いの個性を認め、互いに尊敬し合い、教会を建て上げるという一つの目的のために一致し、それぞれが聖書の知識で豊かにされ、イエス様に似た者となることを求めましょう。

●1月17日礼拝メッセージ要旨(ルカ8:26~39)  

 イエス様と弟子たちが、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に行った時の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①向こう岸へ渡ろう…比較的、近距離とはいえ、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地というのはユダヤ人にとっては異境の地です。イエス様は、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われ、そこで、悪霊につかれた人を救い出しました。同行した弟子たちにとっては、凄まじい光景だったことでしょう。聖書の記事には、全体的に「誰それが何処どこに行って何をした」というパターンが多いかと思います。アブラハムはカナンへ、ヨセフはエジプトへ、モーセはミデヤンへ行き、また、エジプトに戻り、出エジプトのために用いられました。新約聖書ではパウロは、アジアからヨーロッパ、最終的にはローマへ行きました。今日、二千年に及ぶ世界宣教によって、世界中に福音が伝えられておりますが、それは、言葉や文化の違いという壁を乗り越えて福音宣教に励んで下さった先人の方々の犠牲的な働きがあったからこそと言えるでしょう。私たちの教会は、もうしばらくで会堂が完成し、いよいよ燕沢の地での宣教がスタートします。もちろん、言語も文化も同じ近隣の地域です。祝福が待っていることでしょうが同時に霊的な戦いも待っています。油断せず、祈り備えてまいりましょう。
  ②悪霊の力とイエス様の力…悪霊というのはどのようにして人間に関わってくるのでしょう。自然界と似ていると思います。エサのあるところに生き物が集まります。例えば、アフリカの草原で、水辺に多くの生き物が群がります。そこに、それらを狙う肉食動物が近づいてくるのです。霊界も同じです。悪霊の大好物は「罪」です。罪が深ければ深いほど多くの悪霊が近づいてくるのです。イエス・キリストは、その悪魔の仕業を打ち破るために十字架で血を流して死なれ復活されました。私たちが、イエス様の十字架を仰いで悔い改めるとき、罪がきよめられ、悪魔は逃げ去ります。悪霊どもはイエス様を恐れ、身震いしているのです(ヤコブ2:19)。ですから、私たちがイエスと共に歩むならば何も恐れることはありません。
 ③弟子としての道…悪霊が出て行き正気になったその人は、イエス様のお供をしたいと願いましたが、イエス様は、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを話しなさい。」と彼に言われました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエス様のお供をしているのに、その人はなぜか許されませんでした。人それぞれ、弟子として歩むべき道は違うということです。固定観念に縛られることなく、それぞれが聖霊の導きに従い、その人に与えられた道を進んで行くことが大事です。

●1月10日礼拝メッセージ要旨(ルカ8:16~25)  

 ルカ8:16~25の、あかりのたとえ、イエス様の家族、嵐を静めた記事、その三つから、ポイントを三つあげて学びましょう。
  ①あかりとみことば…電灯などの灯りは、たいてい目立つところ、高い所に置くものです。同じように、聖書のみことばも隅っこにおいて隠しておくものではなく、人々の前に明らかにされるべきものです。ところがどうでしょう。この世においては、滅びて無くなってしまうような無意味なものを大事にし、聖書のことばを疎かにするという傾向があります。私たちは、いつまでも残るもの、真に価値あることのために心血を注ぐ者となりましょう。ヨハネ6:27で、イエス様は「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。~」と言われております。
   ②イエス様の家族…イエス様はおよそ30歳のころ公に人々の前に姿を現されました。その頃、家族は、母マリヤと兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモンと妹たちもいました。大勢の群集に囲まれているイエス様のところに、その家族たちがやってくると、人々が、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会おうとして外に立っています。」と言うと、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟たちとは神のことばを聞いて行なう人たちです。」と言われました。今年、私は年賀状を何十枚か出しましたが、うっかり自分の住所の番地を間違えてしまいました。11-8とすべきところを8-11として出したのです。早速、その間違えた住所で返信した人には迷惑をお掛けしてしまいました。郵便は正しい住所で出せば、きちんと先方に行きます。まして、聖書のみことばも、その通り行なえば、きちんと結果に現われ、祝福の実を結ぶのです。
   ③信仰はどこにあるのか…舟の上で嵐を恐れ、弟子たちは、眠っているイエス様に助けを求めました。するとイエス様は嵐を静めてから「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われました。私たちの人生、順風満帆で何の問題もない、なんてことはありません。誰であれ、みんながそれぞれ問題をもっているのです。最近読んだ本に「私たちは問題のない人生を欲するものですが、何も問題がなければ、退屈で死んでしまうでしょう。問題解決や、困難を乗り越えることに取り組む中でこそ、神の望んでおられるような人になれるのです。」とありました。確かに、様々な問題の中に、神の不思議なみわざを体験するものです。正に、すべてのことが益となり、マイナスが却ってプラスになるものです。ですから、私たちは問題こそ人を成長させ、神の栄光が現われるときであること信じ、祈りつつ、主に期待してまいりましょう。

●12月27日礼拝メッセージ要旨(ルカ8:1~15)

   イエス様が、町々、村々を旅しながら、神の国を説き、福音を宣べ伝えておられたとき、同行した十二弟子と女性たちのこと。そして、四つの種のたとえ話の記事からポイントを三つあげて学びましょう。  
   ①イエス様のお供たち…イエス様の地上生涯はおよそ33年でした。公生涯としては約3年半です。その短い期間にイエス様のお供をした12弟子と女たちは幸いな人たちと言えるでしょう。今日、イエス様は天の父なる神の右の座におられますが、この地上においては、聖霊によって、イエス様の名によって集まる所、すなわち教会などにご臨在されます。そして、イエス様を信じる一人一人の心の中にもおられます。ですから、今日、イエス様のお供をしたいならば、聖霊様の臨在する教会に集い、イエス様を心に迎え入れ、聖書のことばを土台にして歩むことです。
   ②実を結ばない種…道ばた、岩地、いばらの中、それぞれに蒔かれた種は実を結ぶことはありませんでした。A.道ばたに落ちた種とは、悪魔にみことばを奪い去られる人のことです。悪魔の喜ぶようなことをして悪魔との関係を断ち切れないでいる人の心にはみことばが留まることがありません。悔い改めて、イエスの十字架の血によってきよめられ、みことばが心に留まる体質にしていただきましょう。B.岩地に落ちた種とは、迫害や試練に弱い人のことです。初代教会のクリスチャンたちは迫害を受けた後「(イエス様の)御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ(使徒5:41」」とあります。C.いばらの中に落ちた種とは、この世の心遣い、富や快楽に惑わされる人のことです。神よりも世を愛する人は結局、信仰をも失ってしまうでしょう。「世と世の欲は滅びます。しかし、神のみこころを行なう者はいつまでもながらえます。(第一ヨハネ2:16)」
   ③百倍の実を結ぶ人…この世では、外見や数字で評価を受けるものです。ですから、どうしても私たちは人との比較の中で、誰それより優っているか劣っているか、というような見方をしてしまうものです。創造主である真の神は、私たち一人一人を世界でたった一人の個性ある唯一の存在として創造されました。ですから、私たちは人まねしなくてもよいのです。あの人のようになろうとか、あの人を目標にして頑張ろうとすること自体がそもそも間違っているのです。自分自身を生きるのです。そうです。創造主である神が、その人にさせようとしている生き方を見つけて、そのように生きることが最善な生き方です。もちろん、自分勝手な生き方ではなく、聖書のことばを土台とし、みことばをよく聞いて、それを守り、よく耐えて、真の意味で百倍の実を結ぶ者とならせていただきましょう。

●12月20日礼拝メッセージ要旨(ルカ2:8~20)

 クリスマスに因んで、ルカ2章から、羊飼いたちが飼い葉おけに寝ておられる赤子のイエス様のところに来た場面からポイントを三つあげて学びましょう。
 ①ダビデの町…ダビデの町とはベツレヘムのことです。その昔、ダビデ王は小さな町ベツレヘムで生まれました。ダビデ王の時代、イスラエルは宗教的(霊的)、軍事的、経済的にも栄え、後の時代の人々にとっては、そのダビデの時代こそ理想国家だったのです。しかし、イエス様降誕当時はローマ帝国の支配下にあり、そもそも、そのローマ皇帝アウグストの勅令によって、ヨセフとマリヤは住民登録のためにベツレヘムに来ていたのです。ミカ章5:2にはイスラエルの支配者になる者がベツレヘムで生まれることが預言されていますが、それは正に、イエス様がベツレヘムで降誕される預言です。主は永遠の深い御摂理の中で、小さな町ベツレヘムに目を留められ、全世界の救い主がそこで降誕されるということをご計画されたのです。
 ②あなたがたのためのしるしです…御使いから救い主降誕の知らせを受けた羊飼いたちは、ベツレヘムに行って、迷わないように、「布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりご」がそれであるという「しるし」を教えられました。この世界を総べ治められ、全知全能の真の神のひとり子が、なんと最も貧しい家畜小屋で産声を上げているのです。先日、ゴスペルハウスの駐車場に生コンを打ち込んでもらいました。週間天気予報では3~4日晴れマーク、その日も朝から快晴。生コンを打ち、左官工事も終えた昼過ぎ、みるみる空が暗くなり、雨がボツボツと降り始めたのです。私が、そこに行く車の中で、「全能の主よ。今、コンクリートを打ち込んだばかりです。雨を止めてください。主イエスの御名によって雨よ、止まれ。」そう祈り終わって、ゴスペルハウスに到着し、車を降りると、激しい風で、帽子が吹き飛ばされ帽子がコロコロと飛んで行きました。ふと空を見上げると真っ黒の雲が風で北東に吹き流され、晴れてきたのです。改めて、祈りはきかれると思いました。天の神様は、時々、私たちに必要としてしるしを見せることがあるのですね。
 ③地の上に平和が…「地の上に平和が、みこころにかなう人にあるように。」と天の軍勢が現われ賛美して言いました。今日、世界的な平和の実現は、ますます難しい状況になっています。国と国、民族と民族が対立し、そしてテロ事件が頻発。結局、平和とは、一人一人の心の中に本当の平和があるかないか、ということではないでしょうか。私たち人間は、生まれながらにして罪人であり、創造主である神と敵対関係にあります。イエス様は、神と人との和解の道を開くために十字架で死なれ、復活されました。主イエス様の御名を呼び求めるならば誰でも救われます(ローマ10:13)。「みこころにかなう人」とは、主の御名を心から呼び求める人です。

●12月13日礼拝メッセージ要旨(ルカ7:36~50)

   イエス様が、あるパリサイ人の家に食事に招かれました。そのとき一人の罪深い女がイエス様の足に香油を塗りました。その記事からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①人それぞれの心の中…そのパリサイ人シモンにとって、その町で知られている罪深い女が家に入ってきたので心中、迷惑千万だったと思います。一方、罪深い女としては、自分のような人間を毛嫌いしているパリサイ人の家などには入りたくないけれども、そこにイエス様がおられて、自分の心の苦しみを一刻も早く解決してくれるなら、少々嫌われても構わない、そんな思いだったのでしょう。そして、食事をしているイエス様のところに、その女が近づき、イエス様の足に香油を塗りました。すると、シモンがその様子を見て、心の中で、そのままにさせているイエス様を非難します。人の思いと言うのは、本当に違うもので、良かれと思ってやっていることが、相手には受け入れられなかったり、逆に、相手のしていることを誤解したりということが多々あるものです。ですから相手に対する寛容な心が必要ですし、その時は、相手に理解されなくても、もっと良いことのためには少々誤解されても忍耐するということも必要です。人の思いや考えは違うもので、その前提に立った上で寛容に事を行なっていくということです。
   ②よけい愛した…当時は、サンダルのような履物で道を歩いたようなので、家に入るときは足を洗うという習慣があったようです。ですから客人を食事に招く主人としては、客人に足を洗う水を用意するのが礼儀というところなのですが、パリサイ人シモンはイエス様に、その水を用意しませんでした。あまり心の伴わない招待だったようです。そんなシモンをよそに女は涙でイエス様の足を濡らして髪の毛で拭い、香油を塗っていたのです。なんという違いでしょう。元々、神の目から見たら、誰が罪深いということはなく、皆同じようなものです。使徒パウロは、第一テモテ1:15で「私は罪人のかしらです」と言っています。確かに、パウロは、クリスチャンを迫害した時期もありましたが、自分は「罪人のかしら」であるという自覚が、パウロをより主に仕えさせた原動力になったのでしょう。
   ③安心していきなさい…罪の赦しを得て、「安心していきなさい」とイエス様に言われた女は、その後どうなったのか聖書には書いてありませんが、おそらく、彼女は悔い改めの実を結び、祝福の道を進んで行ったことでしょう。私は3.11大震災後、3回引っ越しました。結婚してからですと7回目の引っ越しです。行く先々で何があるか分かりませんが、主に信頼して従って行くだけです。第一ペテロ5:7には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」とあります。神様の側で、私たちのことを心配していてくださるのです。大事なことは、主と共にいるかどうかということです。

●11月29日礼拝メッセージ要旨(ルカ7:18~35) 

バプテスマのヨハネが二人の使いをイエス様のもとへ送り、「おいでになるはずの方はあなたですか?」と尋ねさせた記事などからポイントを三つ上げて学びましょう。
①キリストにつまずかない…バプテスマのヨハネは、イエス様にバプテスマを施した人物で、イエス様が自分に近づいてくるのを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と言っています。それほどの人が、なぜ、キリストに対して疑いを持ってしまったのでしょう。このとき、ヨハネは獄中にいた(マタイ11:2)ようです。いくらヨハネのように立派な人でも、厳しい環境の中で、心が萎えてしまったのではないかと考えられます。旧約時代のユダ王国の歴代の王の中で、アサ王は最初すばらしい信仰の人でした。しかし、彼の41年の治世中36年目から、神よりも世の力に頼り、晩年は病気になると医者に頼り(医者だけに頼ったのが問題)、神に頼ろうとはしませんでした。一方、マナセ王は旧約の放蕩息子とも言われていて、彼は、父のヒゼキヤ王が取り除いた偶像を再び立て直し、忌むべき異教の宗教行事をユダの国にもたらしました。それゆえ、マナセは足かせを掛けられ、バビロンに引いて行かれます。そのとき、マナセは悩みの中で悔い改め、主に立ち返りました。すると主は再びマナセをエルサレムに戻らせました。マナセは、今度はユダから偶像を取り除き、民を主に仕えさせたのです。私たちは、つまずくことなく、信仰を最後の最後まで全うしましょう。
②神の国で一番小さな者でも彼より偉大です…バプテスマのヨハネはイエス様から「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも優れた人はいません」と言われるほどの立派な人物でした。確かにヨハネほど世俗から離れた人はいません。しかし、どんな立派な人物であってもイエス様の十字架の義によらなければ神の国に入ることはできません。現時点でのマラソン世界記録は2時間2分57秒です。その大記録を幼子でも破る方法があります。乗用車に乗れば時速40kmで1時間ほどで走るのです。イエス様を信じて神の国に入るとはそういうことです。ハレルヤ。
③笛を吹いて踊る…同じ一つの現象を見ていても、人によっては全く逆の反応をすることがあります。パリサイ人、律法学者たちは、ヨハネのことを「悪霊につかれている」と言い、イエス様には「食いしん坊の大酒のみ」と言いました。聖書のことば、証し、しるし、そういったものに対して、私たちは、あるべき健全な反応をしたいものです。また、しるしや現象を通して私たちに語りかけてくださる真の神である主イエス様に焦点を当ててまいりましょう。

●11月22日礼拝メッセージ要旨(ルカ7:1~17) 

百人隊長の立派な信仰とナインの青年が生き返った記事からポイントを3つあげて学びましょう。
①会堂を建ててくれた人…百人隊長は、自分のしもべの病のいやしを願って、直接イエス様のもとに行ったのではなく、ユダヤ人の長老たちに託しました。長老達は、百人隊長が自分たちのために会堂を建ててくれたと紹介しています。ちょうど、現在、私たちの教会の会堂を建ててくれている方たちがいます。「会堂を建てる」ということは言葉では簡単ですが、実際に建て上げるためには様々な障壁を乗り越えていかねばなりません。そういう意味で、当時の百人隊長がどれほどの犠牲を払って会堂を建てたのか、と思います。私たちも会堂を建て上げるために、引き続き、祈りや自分のできることで協力しましょう。また、会堂とともに、キリストの体なる教会を建て上げるために、自分に何ができるかを考えて行動する人になりましょう。
②立派な信仰…百人隊長はイエス様に「このような立派な信仰はイスラエルの中にも見たことがありません。」と最大級の褒めことばをいただいています。どういう点で褒められたのでしょう。それは、百人隊長が「神のことばは必ず実現する」という信仰を持っていたからです。私たちの毎日の生活を見るとき、何もかもが順調ということはまずありません。むしろ、思うようにいかない事ばかりではないでしょうか。そんなとき、悩んだり、つぶやいたりしてしまいがちです。でも、そこで、みことばに立って、主に信頼していくことが大切です。悪魔も生きていて、悪い火矢を投げ込んできます。でもそこで信仰の大盾を取ること(エペソ6:16)によって、その火矢を消すことができます。悪魔よりも圧倒的に強いイエス様を信じましょう。
③ナインの青年が生き返る…やもめとなった母親の一人息子が亡くなったのですから、その母親はどんなに悲しかったことでしょう。でも、イエス様の一ことばで死んだ息子が起き上がり、ものを言い始めました。今日、こういった奇跡が起こることはまずありえませんが、私たちの現実生活の中で、ありえないような小さな奇跡を時々見ることがあるものです。また、よく考えてみますと、私たちが、この世に生きていること、否、真の神様によって生かされていること自体が奇跡であります。そして、最も喜ばしく素晴らしい奇跡は、一人の人がイエス様の救いに与ることです。私たちの生涯が、そのことのために用いられたらどんなにか幸いなことでしょう。