●2月15日礼拝メッセージ要旨(マルコ12:35~44)

  エルサレムの宮で、イエス様は、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫なのに、どうしてダビデはキリストを主と呼んだのでしょう?と話されます。また、見えを飾る律法学者について、そして、人々が献金する様子を見ていたイエス様は、レプタ2枚を献金した貧しいやもめが誰よりも多く献金したと言われます。以上、三つの記事からそのまま三つのポイントで学びましょう。
 ①ダビデの子キリスト…この当時も、それから2000年も経過する今日も、「イエス・キリストは誰なのか」ということを探り求めることは全ての人にとって大きな課題であると言えるでしょう。ダビデは自分の身から出る子孫からメシヤが現われ、その人物に対して「私の主」と告白しています。当時、律法学者たちは、ダビデが「私の主」と告白している方を蔑(ないがし)ろにしていたのです。世には一神教と言われる諸宗教、またキリスト教系新興宗教などと言われる諸団体があります。それらが天地を創造した唯一の真実な神とつながっているのでしょうか?第一ヨハネ4:2~3を見ますと、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。すべての人は罪人であり、やがて神のさばきの前に立たなくてはなりません。それを免れる唯一の道がイエス様の十字架であり、ゆえに、イエス様を主と呼び、この方を主として生活することが求められ、逆に、そうでなければ必ず行き詰まることになるでしょう。
 ②見えを飾る人…当時、律法学者たちは、長い衣をまとったり、広場で挨拶されたり、宴会の上座が大好きで、見えを飾るために長い祈りをしていたようです。今日、私たちは、社会生活上、ある程度の体裁を整えることも必要ですが、その枠を超えて見えを飾る必要などありません。うわべではなく、心を見ておられる主の前にどうであるか(第一サムエル16:7)が問われます。
 ③レプタ銅貨二つ…皆が献金するのを見ておられたイエス様は、献金箱に大金を投げ入れた多くの金持ちたちよりもレプタ銅貨二枚を投げ入れた貧しいやもめが「どの人よりもたくさん投げ入れた」と言われました。主へのささげものは、心を見られる主に対して、心から喜んでささげる姿勢が大事です。私たちは、主イエス様にしっかりと結びつき、みずみずしく生い茂った木のように、多くの実を成らせようではありませんか。

●2月1日礼拝メッセージ要旨(マルコ12:18~34)

サドカイ人たちがイエス様に、復活についての質問をした記事、そして、一人の律法学者がイエス様に大切な命令(戒め)について尋ねた二つの記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①サドカイ人と復活…サドカイ人たちはユダヤ教諸会派のなかで少数派でしたが、彼らは貴族階級に属し、ユダヤ人の中で実権を握っていたようです。モーセ五書を権威ある書として、死者の復活については否定的でした。そこで、彼らはイエス様に、申命記25:5のケースから、兄弟七人が次々と死んで、一人の妻と結婚した場合、復活の際、誰の妻になるのか、という質問をしました。それに対してイエス様は、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らない。復活のときは、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようである。」と答えました。この地上における有様そのまま、復活のときも同じと考えるならば、確かにサドカイ人の指摘もあながち的外れではありません。しかし、復活、それは、今の不完全な世界が完全な世界(第一コリント13:10)とされるときであり、今の世にある私たち人間の理解を超えたものであることを覚えなければなりません。イエス様は十字架の後に復活され、復活の初穂(第一コリント15:20)となられました。それは、やがて、イエス様を信じる私たちも復活の体に与るのです。
②生きている者の神…出エジプトに用いられたモーセは、ホレブで主に出会ったとき、主は「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言われました。アブラハム、イサク、ヤコブらは私たちと同じように欠点も失敗もある人たちでした。しかし、彼らに共通して言えることは、全知全能の神を恐れ、信じ、それぞれ自分に与えられた使命を全うした人々であり、天のいのちの書に名が記され、霊的に生きている人たちなのです。今日、私たちは霊的な戦いの中に置かれています。キリストを信じる信仰によって、この世に打ち勝ち、霊的勝利者とさせていただき、主が私たちの内に生きているという証し人であることが求められています。
③大事な命令…律法学者の質問に対してイエス様は、申命記6:4~5及びレビ記19:18を引用され、「神は唯一である。心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ」と言われます。それに対して律法学者は、「神を愛し、隣人を愛することは、どんないけにえよりもすぐれています。」と肯定的に応答します。するとイエス様は「あなたは神の国から遠くない」と言われました。「遠くない」とは、神の国からまだ少し距離があるとも言えます。やはり、イエス・キリストを受け入れてこそ、その人に神の国が到来します。その上で、神を愛し、隣人を自分自身のように愛していきましょう。

●1月25日礼拝メッセージ要旨(マルコ12:1~17)

1~17節の、ぶどう園の主人のたとえ、カイザルへの税金についての二つの記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①ぶどう園の主人と農夫…聖書には、ぶどうに関する多くの記事があります。それだけ、ぶどうやぶどう園が当時の人々の生活に密着したものであったのでしょう。我が日本国では、お米とか田んぼですと、身近な感じがします。その昔、農民が大名などに年貢米を納めていた時代がありました。農民が、年貢米を取り立てる役人を殺したなどという話は聞いたことがありません。現実は、やはり、農民(農夫)のほうが弱い立場にあります。しかし、創造主である神と人との関係においては、しばしば、否、頻繁に人の側が神に逆らうのです。イスラエルでは、かつては神に遣わされた預言者たちを殺し、今また、神のひとり子イエス・キリストを殺そうとしているのです。しかも、最も神の近くにいて、神に仕えるべき人々が、神に反逆していたのです。今日、私たちも、ぶどう園を預けられ、その収穫のための働きを期待されている農夫のようです。それぞれに与えられた賜物や能力を最大限に生かして、すべての点で神の栄光が現われる機会としたいものです(第一コリント10:31、第二コリント4:15)。
②礎の石…見捨てられた石が礎の石となった。イエス様は人々に見捨てられ、十字架で殺れました。しかし、その十字架が、多くの人々を救う唯一の道となりました。十字架、それは、神が私たちに愛を示しておられるということです(第一ヨハネ4:10)。神に愛され、神の子とされている私たちは、そのことを既成事実としてしっかりととらえていることが大事です。
③カイザルへの税金…私たちには聖書という確固たる規範が与えられていますが、一方では、この世の法律もあり、それに従うのは当然です。幸いにして、我が国において、聖書の教えと憲法や法律が相反するということは殆どありません。しかし、今後、愚かな支配者が現われて、とんでもない悪法が制定されないとも限りません。そのとき、どうするか。ペルシャの王ダリヨスの時代、ダニエルは、王以外の何ものも30日間礼拝してはいけないという、とんでもない法律が制定されたのを知って、その上で、いつものように彼の信じる全能の主を礼拝し、祈りをささげていました。それゆえ、ダニエルは獅子の穴に投げ入れられました。ところが、獅子はダニエルを襲わなかったので、王はダニエルを穴から引き上げ、ダニエルを陥れようとした大臣たちを獅子の穴に投げ入れるように命じました。私たちは、まず、創造主である神を恐れ、人を敬い、法律にも従う。そのためにも、すべての人の為に、また為政者のためにも祈らなければなりません(第一テモテ2:1)。

●1月18日礼拝メッセージ要旨(マルコ11:12~33)

イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレム入城された後、宮に入られ、すべてを見て回られ、ベタニヤに帰られます。その翌日、またエルサレムに向かわれます。きょうもポイントを三つあげます。
①実を結ぶ…途中、イエス様は、実のなる季節ではないのですが、葉だけのイチジクの木を見て「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」と言われます。それは、エルサレムの宮の霊的状態をイチジクの木になぞらえ、実物教育をしたのでしょう。今日、私たちは、実を結ぶために選ばれました(ヨハネ15:16)。実を結ぶとはどういうことでしょう。神の栄光を現わすということでしょう。ガラテヤ5:22~23には「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。これらの実を結んでいるか自分自身をチェックしましょう。
②祈りの家と呼ばれる…本来、神の宮は礼拝と祈りの場所でなければならないのに、そこは、金儲けの場所と化していました。イエス様は、「強盗の巣」と言っています。当教会では、現在、会堂建設に向かっています。そこで改めて、教会とは何か、会堂とは何かを考えました。イエス様はイザヤ56:7のみことばを引用され、「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる。」と言われました。ですから、私たちも、祈りの家としての教会堂を祈りによって建て上げ、建て上げたら、そこを祈りの家と位置付けて、さらにそこで祈り、主の栄光を現わしてまいりましょう。
③信じて祈る…イエス様がのろわれたイチジクの木は、翌朝見ると、なんと根まで枯れていました。ペテロが驚いていると、イエス様が、「疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる。」と言われました。そして、それに加えて、誰かに対して恨み事があったら赦してやるようにとも言われます。確かに、神に逆らった行ないをしていて、どうして、その人の祈りがきかれるでしょう。ユダのヨシャパテ王は、歴代の王の中では善王と言われています。ユダの町々で律法の書を教えさせ、偶像を取り除きました。しかし、バアル礼拝に励む北イスラエルと同盟を結びました。良い点もあったヨシャパテ王でしたが、部分的には神のみこころに背いたため、その点で後の世代に禍根を残してしまいました。今日、私たちも、主に全面的に従うこと。天の父が完全なように完全であることが求められています。実際的には中々難しいのですが、その部分のハードルを超えるかどうかで、その結果に大きな差を見ることになるでしょう。

●2015年1月4日礼拝メッセージ要旨(マルコ11:1~11)

   イエス様がロバの子に乗って、エルサレム入城した記事からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①主がお入り用なのです。主は、エリコからエルサレムに向かって進み、ベテパゲとベタニヤに近づいたとき、二人の弟子を使いに出して、ロバの子を引いてくるようにと命じました。「なぜそんなことをするのか」という人がいたら、「主がお入り用なのです。」と言うように、と言われます。実際にその通りになって、ロバの子をイエス様のもとに引いてきました。そのロバの子は、エルサレムに入城するイエス様をお乗せするという主の御用に役立ったわけです。第一コリント12章には、神が一人一人に色々な賜物を与えてくださっているということ。また、教会は、一人の人間の体のように、様々な器官によって成り立ち、支え合っている。それぞれに無くてはならない存在であって、弱いとされる器官却って、なくてはならないものである、と教えています。教会に所属する私たち一人一人は、主の御用のために召されていることを覚え、「主よ。私をあなたの御用のためにお用いください。私のなすべきことをお示しください。」と祈りましょう。
   ②主をお乗せした子ロバ…子ロバが背にイエス様をお乗せした直後、多くの人々に大歓迎を受けます。子ロバが通る道に、人々は上着を敷いたり、木の枝を敷きます。しかし、それは、子ロバを歓迎しているのではなく、乗っておられるイエス様に対するものです。ちょうど子ロバがイエス様をお乗せしたように、私たちもイエス様と共に歩むならば、光栄を受けます。詩篇34:5には「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」とあります。いつも主から目を離すことなく、主に信頼し、従ってまいりましょう。
   ③「ホサナ」と「十字架」…イエス様がロバの子に乗られたのは、ゼカリヤ9:9の預言の成就でもあります。ホサナとは「どうぞ救ってください。」という意味で、多くの人々が「ホサナ。ホサナ。」と叫んでいるのですが、この数日後、イエス様は、この「ホサナ」とは全く違う「十字架につけろ」という言葉を聞くことになります。マルコ15:11を見ますと、祭司長たちが群集を扇動して、そう言わせたのです。そう言わせた祭司長たちにも問題はありますが、そういった扇動に単純に乗ってしまうことも問題です。今日も、この世の中には、人々を扇動して誤った方向に向かわせようとする様々な団体があります。何が真実で、何が誤っているか、世が複雑化し、益々真実が見えなくなっている時代に、必要なことは、聖書のみことばに親しみ、聖書から知恵を得てイエス様に似た者になることを目標として、深い洞察力を養い、悪の力に惑わされないようにしましょう。

●2014年12月28日礼拝メッセージ要旨(マルコ10:32~52)

   記事の三つの内容に合わせて、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①十字架と復活…某新聞社による2014年十大ニュースでトップだったのは御嶽山噴火の出来事でした。人の命や魂に関わる衝撃的なニュースだっただけに人々の記憶に強い印象を残しました。キリストの十字架と復活は、人の命とか魂に関する根本的な問題を解決する唯一の道です。イエス様は弟子たちに、ご自分が苦しみを受けて殺され、三日目に復活するということを時々語っています。ヨハネの福音書には記されていませんが、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にそれぞれ二度ずつ、計6回記されています。言うまでもなく、その後、実際に十字架に架けられ復活するのですが、全福音書にその記事が入念に記されています。パウロは第一コリント15:3~4で、キリストの十字架と復活は最も大切なこととして伝えたと言っています。また、ガラテヤ6:14ではキリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならないと言っています。私たちには、忘れても良いことが多くありますが、キリストの十字架と復活は決して忘れてはなりません。
   ②仕える者になりなさい…ヤコブとヨハネはイエス様に「あなたの栄光の座であなたの左右に座らせてください。」と言います。見当違いな願いであったことは明らかですが、この当時の12弟子たちの中で、ヤコブとヨハネはペテロと共に高い山でイエス様の変貌に立ち会い、実質的に群れのリーダーとして行動していたと思われます。ですから、彼らとしては正論を言ったつもりだったのでしょうが、イエス様は、「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」と言われます。この世は力や地位を求める傾向がありますが、私たちは、謙遜且つ誠実に福音のために仕えてまいりましょう。
   ③何をしてほしいのか…この章では36節でも「何をしてほしいのですか」とありますが、ヤコブとヨハネの願いは退けられました。それは、神のみこころにかなう願いではなかったからです。しかし、バルテマイという盲人の願いは聞き届けられました。第一ヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあり、また、ピリピ2:13には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」とあります。私たちは、個人として、またキリストのからだである教会として、それぞれに自分たちに何ができるか、何をすべきなのか、主から与えられた使命は何なのかを探り求め、それを実行していきたいと思います。バルテマイが「目が見えるようになることです。」と願ったように、私たちは、明確な目標を掲げて祈ってまいりましょう。

●2014年12月21日礼拝メッセージ要旨(イザヤ9:1~10)

クリスマスに因んで、イザヤ9:1~10からポイントを3つあげて学びましょう。
①ゼブルンの地とナフタリの地…イザヤはBC740~700年頃に神に用いられた預言者でした。時はユダのアハズ王(BC741~726)のとき、北イスラエルの最北端に位置するゼブルンの地とナフタリの地が首都サマリヤ陥落(BC721年)前のBC734年頃にアッシリヤによって滅ぼされます。しかし、そのおよそ七百数十年後に最も神の光栄を受ける地となります。救い主イエス・キリストが育ったナザレはゼブルン内にあり、キリストの宣教の拠点となったガリラヤ湖西岸地域はナフタリの地でした。かつて、辱めを受けた地が最も光栄を受ける地となりました。すなわち、天の神は、今日も、弱っている人、悩んでいる人に目を留め、恵みを注ごうとしておられるのです。
②ひとりのみどりご…みどりごとは、緑の子、若芽のように生まれたばかりの子です。そういう赤ちゃんが「私たちのために生まれ、私たちに与えられる」のです。それは、神のひとり子イエス・キリストの十字架によって、罪の赦しによる神と人との和解の道が開かれました。この神の側からの和解に応じて、イエス様を受け入れるとき、主が共にいてくださいます。その男の子、イエス様は、主権を持ち、不思議な助言者と呼ばれ、私たちが進むべき道を聖霊によって示してくださいます。また、力ある神であり、私たちに力と愛と慎みの霊(第2テモテ1:7)を注いで下さいます。そして、永遠の父とも呼ばれ、永遠のいのちを与えてくださいます。さらに、平和の君であり、世が与えるのとは違う揺るぎない平安、本当の安心(ヨハネ14:27)を与えてくださいます。
③万軍の主の熱心…イザヤ9:7を見ますと、その男の子の主権は増し加わり、ダビデの王座に就いて、その王国を治める、すなわち、永遠の天の御国の王座にイエス様が就くということですが、それを成し遂げるのは「万軍の主の熱心」であるというのです。当教会の会堂建築も万軍の主の熱心によって実現します。但し、万軍の主がそれをされるのであれば、私たちの心も万軍の主に向いていなければなりません。当時、首都サマリヤとエフライムは、高ぶり、思い上がって、神に頼らず、9~10節にあるように、「レンガが落ちたら切石に、いちじく桑の木が切り倒されたなら杉の木に」というように、この世の物に頼っていました。ヤコブ4:6には「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。」とあります。へりくだる者とは、イエス様により頼む者です。また、ヘブル4:16には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とあります。私たちの目の前にある問題は、その時その時違ってきます。折に叶った助けを受けるために大胆に主に願い、祈り求めましょう。

●12月7日礼拝メッセージ要旨(マルコ10:17~31)

  イエス様のところに、一人の財産家の青年が来て、永遠のいのちを自分のものにするには何をしたらよいのかと質問し、それにイエス様が答える場面。それを受けて、ペテロが口出しをしたのに対し、イエス様がお語りになります。ここからポイントを3つ上げて学びましょう。
  ①たっとい方は、神おひとり…青年はイエス様に対し「尊い先生。」と呼びます。するとイエス様は、「たっとい方は、神おひとり」と言われます。その青年は、行ないによって永遠のいのちを得ようと考えていたようですが、救いは行ないによるのではなく、神に出会うこと、神を信じることによって与えられます。エペソ2:8~9には「 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。もちろん、行ないなどはどうでもよいということではありません。まず、神に出会い、神を信じことが先決です。
  ②天に宝を積む…次にイエス様は、その青年に対して「殺してはならない。姦淫してはならない。父と母を敬え。などの戒めを守りなさい。」と言われると、青年は「そのようなことをみな、守っています。」と答えます。そこでイエス様は、「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。」と言われると、青年は悲しみながら去って行きました。救いは行ないによるのではないのですが、神を信じて神に従う者の使命は、天に宝を積むことです。マタイ6:20には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とあります。神に対してささげ物をすることも天に宝を積むことですが、日常の行ないを通して神の栄光を現わすことによって天に宝を積むことにもなります。また、神のみこころにかなう祈りをささげることも天に宝を積むことです。
  ③イエス様と福音のために…ペテロは何もかも捨ててイエス様に従ってきた(マタイ4:19)ことを自慢げに語りました。するとイエス様は、それには直接応答せず、御自身と福音のために何かを捨てるならば、この世でその百倍の報いを受けると言われました。キリスト者にとって、永遠のいのちは最終的な報いですが、この世においても、主と福音とのために何かをするならば、主はそれに対して報いてくださいます。私たちは、それぞれに与えられた使命を果たしつつ、主と福音に仕えてまいりましょう。

●11月30日礼拝メッセージ要旨(マルコ10:1~16)

イエス様とパリサイ人との結婚に関するやり取りと、子供たちがキリストのもとに連れて来られた二つの記事からポイントを三つ上げて学びましょう。
①結婚と現実…パリサイ人たちがイエス様をためそうとして、申命記24:1~の離婚に関しての質問をします。それに対してイエス様は、神が定めた結婚の原則と人間の弱さについて語ります。新約聖書では使徒パウロが第一コリント7章で、その問題に関する具体的な勧めをしています。基本的に、独身者に対しては積極的に結婚を勧めているわけではありません。既婚者に対しては、現在与えられている環境に留まるのが良いとしています。
②結婚の奥義…エペソ人への手紙5章には結婚の奥義について記されていると言えるでしょう。教会がキリストに従うように、妻は夫に従うべきであるとあり、キリストが教会を愛してご自身をささげられたように、夫は自分の妻を愛しなさいと教えています。そして、エペソ5:31~32では、 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」とあります。教会、すなわちクリスチャンは、この地上にあって大切な使命が与えられています。旧約時代に、出エジプトしたイスラエルはカナンの地に入ってから、原住民と戦ってその地を勝ち取らなければなりませんでした。新約時代に於いては、ペテロやヨハネ、ピリポやパウロは、聖霊に満たされながら、滅びに向かっている人々に福音を宣べ伝え、多くの魂を救いに導いています。コロサイ1:27には「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」とあります。結婚の奥義以上に、キリストと教会、イエス様と私たちが一体となる奥義が大事です。
③子どものように…パリサイ人らは、イエス様をためそうとしましたが、子どもたちを連れてきた人たちは、単純にイエス様からの祝福を求めました。今日、日本の福音化は中々浸透していきません。福音宣教の自由のない共産主義やイスラム教の国々よりもクリスチャン人口が極少です。なぜでしょう。色々な理由が考えられますが、難しいからこそ、神の特別な御介入に期待しましょう。私たちは、イエス様と一体化させていただき、イエス様のみ心とみ思いを自分のものとさせていただきましょう。そのために、幼子のようにへりくだって、神の祝福を求めましょう。

●11月16日礼拝メッセージ要旨(マルコ9:41~50)

  マルコ9章41~50からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①一杯の水とつまずき…41節で、「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」とあります。互いに相手をキリストの弟子として尊重し、互いにもてなし合うということは、キリストご自身も、それを喜ばれ、豊かな報いを受けるでしょう。ローマ12:13には「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」とあり、ガラテヤ6:10には「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」とあります。また、人につまずきを与えないように気を付けねばなりません。伝道者の書10:1には「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とあります。100度の善よりも1度の悪のほうが重いものです。
  ②神の国とゲヘナ…最近は、終活という言葉があるそうです。人生の最期への備えです。つまり、自分が死んだときのために、自分の墓や葬儀の準備をしておくことを終活と言うのだそうです。しかし、もっと大切な終活は、霊魂の行き先をしっかりと、備えておくことです。すべての人は罪人であり、神の栄誉を受けることはできません。ゲヘナに落ちるのではなく、神の栄誉、すなわち、永遠の天の御国に入るために、イエス・キリストの十字架の救いをしっかりと自分のものとしなければなりません。
  ③塩気と和合…49節の「すべては、火によって塩気をつけられるのです。」とはどういう意味でしょう。第一ペテロ4:12~13を見ますと、火というのは試練のことであり、キリストの苦しみに与ることによって、塩気、すなわちイエス様のように生きることです。聖路加病院理事長の日野原重明さんは、現在103歳で、「生き方上手」などの著書多数です。日野原さんの転機は59歳のとき、1970年のよど号ハイジャック事件で人質になるという経験をされ、そのとき解放されて、飛行機から降りて空港の土を踏んだときです。それまでは有名な医者になることが目標だったけれども、これからは、自己中心でない、もっと外に向いた、人のためになる生き方をしたい、と強く思うようになったそうです。正に、試練を通して塩気をつけられたのでしょう。50節には、塩気を保ちつつも和合して暮らしなさい、とあります。とかく、自分に対して厳しい人は、他人に対しても厳しさを要求してしまうものですが、あくまで、人には優しく、寛容に接していきたいものです。