●10月26日礼拝メッセージ要旨(マルコ9:30~40)

  この9章では、イエス様が、ヘルモン山のふもとのピリポ・カイザリヤからガリラヤ、そしてカペナウムに到着する道中と到着後における弟子たちとの会話から、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①一番大事な事…イエス様は、9:31でもそうですが、同じマルコ8:31でもご自分が殺されて三日の後によみがえることを話されます。人間は誰でも死にます。ヘブル9:27には「人間は一度死ぬこと、死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。イエス様は、私たちが死後にさばきを受けなくてもよいように、十字架で、私たちの罪をその身に受けられ、死後、三日目に復活されました。使徒パウロは、第一コリント15:3~4で、「最も大切なことは、イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に復活したことである」と言っています。
  ②謙遜(仕えること)…道中、弟子たちは、誰が一番偉いかということを議論していました。それを知ってイエス様は「誰でも、人の先に立ちたいと思うなら、皆のしんがりとなり、皆に仕える者になりなさい」と言われます。偉い人ほど謙遜になれ、というのが聖書の教えです。人の前での謙遜も良いことですが、創造主である神の前での謙遜、つまり、みことばに従う謙遜はもっと大事です。
  ③寛容(受け入れる)…38節で、ヨハネは、イエス様の名を使って悪霊を追い出している者を見て、自分たちの仲間ではないので止めさせた、と言っています。とかく私たち人間は、自分と違う他者に対して排他的になるものです。それは、物事を自分中心にして見てしまうからです。少し視点を変えて相手の立場から物事を見れば、人間関係もずいぶん違ってきます。私の妻はよく携帯電話を紛失します。いつものことですから、一緒に探したり、私の携帯で掛けて鳴らしたりします。ここ数日、頻繁に携帯を失くし、呆れてしまって、つい私の言葉も「いいかげんにしろよ」という感じで荒くなっていました。ところが、今度は、私が運転免許証を紛失してしまったのです。免許不携帯になるので、妻に運転してもらって、行った先などを探しましたが見つからず、かなり焦り、心が騒ぎました。免許証だけでなく、保険証とか銀行カードとか大事なものが入っています。しかし、意外な落とした場所を思い出し、ようやく見つけたときには、喜びと感謝とともに携帯を失くす妻に対して何も言えなくなったことを覚えました。ピリピ2:3~5を見ますと、自己中心にならず、他者を思いやる心はキリスト・イエスのうちに見られるものです。

●10月12日礼拝メッセージ要旨(マルコ9:14~29)

  イエス様とペテロとヤコブとヨハネが、高い山から下りてくると、他の弟子と律法学者が議論をしていて、それを取り囲むように群集がその様子を見ています。そこにイエス様が来られたということで、口をきけなくする霊にとりつかれた息子の父親が、霊を追い出してくれるようにと願います。ここから、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①ああ、不信仰な世だ…そこにいたのは、弟子たち、律法学者、群集ですが、イエス様は誰に対して「不信仰だ」と言われたのでしょう。おそらく全員に対してでしょう。今日、「信仰」と言っても、人それぞれ、その段階があります。偶像礼拝者、一神教でもイスラム教やユダヤ教もあります。キリスト教系の怪しいグループもあります。正統なキリスト教でも、熱心な人とそうでない人もいるでしょう。但し、熱心で立派なクリスチャンであっても、何か大きな問題を抱えている人から、その解決をお願いされたとして、すぐに、その解決を提供できるかというと、そう簡単には行かないという現実もあるでしょう。しかし、それでも、私たちは、大胆に主の御名によって祈りを通して、その人に祝福が受け継がれることを期待してまいりましょう。
   ②どんなことでもできる…その息子の父親は「もし、おできになるなら」と言い、イエス様からお叱りを受けました。ヤコブ1:6には、「少しも疑わず、信じて願いなさい。」とあります人間が彫刻した偶像の神々や怪しい宗教は疑ったほうが良いのですが、聖なるイエス・キリストの神は、信じて、期待して、信仰の目を大きく上げて、願い求めましょう。
   そのためにも第三のポイントは③祈りによらなければ…です。弟子たちが、イエス様に、「なぜ自分たちは、その男の子から霊を追い出せなかったのでしょう。」と質問すると、主は、「祈り(と断食)によらなければ」と答えられます。今日のキリスト教界においても、奇跡やしるしを行なう賜物を持った人が現われます。それは素晴らしいことですが、そういったしるしや奇跡ばかりを追い求めると、本来の信仰から脱線する危険性もありますから注意が必要です。現実的、実際的には、一つのことを願うとき、「祈り続ける」ということが大切です。私たちは、イエス様の栄光のため、また、滅びに向かっている方々の救いのために、自分自身が世から聖別されて、信じて祈り続けてまいりましょう。

●10月5日礼拝メッセージ要旨(マルコ9:1~13)

  イエス様がペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に上って行かれ、そこで、お姿が変わります。そのとき、エリヤとモーセが現われます。その後、山を下りながら三人の弟子たちの質問に答えられます。ここから、ポイントを三つ上げて学びましょう。
   ①「栄光の御姿」…ここでイエス様は、本来の神の栄光の御姿に変わられました。元々は、神の御姿である方なのに、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです(ピリピ2:6~7)。この世に無数にある偶像の神々は、表向きこそ何らかの形に作られていますが、その中身は、石やコンクリートにすぎません。私たちは物事の実体、本質にしっかりと目を留めていかねばなりません。イスラエルの王ダビデは、「まことに、私は何者なのでしょう。…すべては、あなたから出たものであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。(第一歴代誌29:14)」と、ちゃんと、物事の実体を見極めた上での祈りをささげています。
   ②「そこにいるのはイエスだけ」…イエス様のお姿が変わっただけでなく、そこにエリヤとモーセが現われます。すると、ペテロは幕屋を三つ作ります、と見当違いな発言をします。そのとき、天から「これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞きなさい。」という声が聞こえ、そこにイエス様だけがおられました。詩篇73:25には「天では、あなたのほかに、誰を持つことができましょう。地上では、あなたのほかに、私はだれをも望みません。」とあります。もし、許されて、天の御国に入るならば、そこはイエス様だけが崇められるところです。ですから、私たちは、この地上にいるときから、主イエス・キリストのみを崇めましょう。
   ③「エリヤと人の子」…イエス様が「人の子が死人の中からよみがえるときまで、今見たことを話してはならない」と言われて、弟子たちは、救い主到来の条件として、エリヤが来るということを律法学者たちはマラキ4:5を根拠に言っているということをイエス様に質問します。すると、イエス様は、エリヤ(バプテスマのヨハネ)は既に来たこと、人の子が苦しみを受けることなどを話します。しかし、このとき、弟子たちは、それらのことを理解できる状態ではありませんでした。彼らが、本当に理解できるようになったのは、キリスト復活後、さらにはペンテコステの時だったでしょう。今日、私たちはどうでしょう。キリストの十字架と復活、そして、聖霊に対する理解をさらに深め、主とともにある祝福の人生を歩んでまいりましょう。

●9月28日礼拝メッセージ要旨(マルコ8:22~38)

  イエス様は、ベツサイダで盲人を見えるようにされ、そのあと、ピリポ・カイザリヤへ向かいます。その途中で、弟子たちに向かって、ご自分が誰であるのかという質問をされます。また、ご自分が十字架で殺され、三日目に復活するということも話されます。ここから、ポイントを3つ上げて学びましょう。 
   ①見えるようになった盲人…イザヤ42:7には「こうして見えない目を開き~」とあり、盲人の目が見えるようになる、そういったみわざが起こることが、救い主(メシヤ)到来の一つのしるしとして預言されています。イエス・キリストは、いつまでも変わることなく、今日も、イエスの御名によって祈るとき、いやしのわざ、奇跡のわざが起こりえます。ここで、イエス様ならどんなことでも出来るのに、なぜ一度にではなく、二段階にて盲人の目を見えるようにされたのでしょう。色々と考えられますが、今日、私たちが祈り願うとき、段階的に、その祈りが聞かれる、そういうことを示唆(しさ)しているのかもしれません。
   ②あなたはキリストです…23節で、イエス様は盲人を村の外に連れ出しています。また、26節では、その人に、村々に入るなと言われます。それは、この第二のポイントに関連しています。すなわち、イエス様を誰だと言うのか。奇跡を行なう一時的な人気者として見るのか。当時、そういう人がほとんどだったのです。村の外に連れ出したのは、それを避けるためだったのでしょう。ペテロは「あなたはキリスト(メシヤ)です。」と言いました。今日、私たちも、イエス・キリストが誰であると位置づけるのか、それは非常に重要な問題です。新聖歌201番には「イェスは我が命、また喜び、全ての全てぞ我にとりて」という歌詞があります。
   ③自分の十字架を負う…31節でイエス様は、ご自分が十字架で殺され、三日目によみがえることを言われます。そのとき、ペテロはイエス様をいさめます。結局、ペテロは、「あなたはキリストです」と言ったものの、それは、この世的な、政治的なメシヤとしての位置づけでしかなかったのでしょう。そんなペテロを叱ったイエス様は「自分の十字架を負って、わたしについてきなさい。」と言われます。私たちそれぞれ、その人にしか出来ない使命があります。それは最終的に、イエス・キリストと福音のため(35節)の使命であるべきでしょう。

●9月14日礼拝メッセージ要旨(マルコ8:1~21)

 イエス様は、7章の最後で、デカポリス地方のガリラヤ湖東岸付近におられ、そこに大勢の人が集まり、そこでまた、7つのパンで4000人が満腹するという奇跡が起こります。その後、舟に乗られて、ダルマヌタ地方へ行かれると、そこへパリサイ人たちが来て議論をしかけ、天からのしるしを求めます。しかし、主は、彼らとの議論を避け、再び向こう岸に船で行かれます。舟の中で、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気を付けなさい。」と言われ、弟子たちが、パンを持っていないことで議論し始めると、「まだ悟らないのですか。」と言われます。ここからポイントを三つあげて学びましょう。    ①しるしを求める人…一人の人がイエス・キリストを信じる信仰を持とうとするとき、それが本当に信ずるに足るものであるかどうかという確信が必要であり、そのために色々な観点で学んだり調べたりするもので、それはとても良いことです。しかし、ここに出てくるパリサイ人たちは、そういう姿勢は全く無く、議論のための議論でしかありませんでした。ですから、それを見抜いておられるイエス様は、彼らの求めに応じることはありませんでした。
   ②パリサイ人のパン種とヘロデのパン種…パリサイ人のパン種とは、表向きは敬虔を装いながら、利己的で自分の間違いを決して認めようとしない人です。ローマ12:2には「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とありますヘロデのパン種は、世俗主義です。ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」とあります。
   ③5つのパンと7つのパン…5つのパンで5000人が満腹し、余ったパン切れは12カゴでした。一方、7つのパンで4000人が満腹すると、余ったパン切れはいくカゴになるでしょう。算数の計算なら人が少ない分、余りは多くなるはずですが、イエス様の奇跡はそんな計算は全く当てはまりません。創造主であり全知全能の神は、人間の計算をはるかに超えた超自然的な事がお出来になる方です。当時、弟子たちは、5つのパンと7つのパン、二つの大きな奇跡を間近で見ていながら、悟ることが出来ませんでした。私たちは、イエス様を信頼し、期待して、信じ祈り続けてまいりましょう。

●9月7日礼拝メッセージ要旨(マルコ7:24~37)

 イエス様は、ツロの地方へ行きます。そこにギリシャ人でスロ・フェニキヤ生まれの女が、自分の小さな娘が汚れた霊から解放されるように願い求めます。その願いに応えたあと、再びデカポリス地方のガリラヤ湖に来られます。すると、そこへ、耳が聞こえず、口のきけない人が連れて来られます。ここから、三つポイントをあげて学びましょう。
  ①願い続けた…初志貫徹という言葉がありますが、どんなことであっても、目標を達成するまで、最後まで成し遂げればよいというものではありません。やはり、良い事、その人にとって幸いなこと、否、神のみこころにかなう願い(第一ヨハネ5:14)であるなら言うことなしです。先日は、ユーオーディア管弦楽団によるコンサートが行なわれました。二十数年前、柳瀬洋さんはたった一人で舞台に立ってクラリネットの演奏をしていました。今、全員クリスチャンによるオーケストラコンサートが仙台でも開催され、会場は満席となりました。柳瀬さんのビジョンが、コツコツと積みあげられて、今、実を結んでいるのです。これは、願い続けることの一つのお手本です。
  ②子犬でも…いくらイエス様でも「子犬」とはなんと失礼な、と思ってしまいます。ここでは、子供たちはユダヤ人、子犬は異邦人として表現されています。神のみことばは、アブラハムの子孫であるイスラエル人(ユダヤ人)に語られ、その後、異邦人に、という神のご計画がありました。そのことを理解していたのかどうか分かりませんが、スロ・フェニキヤの女は、「子犬でも子供たちのパンくずをいただきます。」と答え、結果、彼女の願いは聞き届けられます。ローマの百人隊長もイエス様に「あなたを屋根の下にお入れする資格はありません。ただお言葉をください。」(マタイ8:8)と言って、その女と同じようにへりくだって、主から恵みをいただきました。
  ③エパタ(開け)…デカポリス地方のガリラヤ湖というと、しばらく前に、レギオンと言われるほどの無数の悪霊から解放された男が、その解放の証しを言い広めた地(マルコ5:20)です。そういった下地があったのでしょう。人々は、耳が聞こえず口がきけない人を連れてきました。イエス様は、その人の両耳に指を差し入れ、つばきをして、その人の舌に触られました。そして、深く嘆息してから「エパタ」と言われると、その人の耳は聞こえ話せるようになりました。深い嘆息、イエス様は、その人の人生、耳が聞こえない口がきけない、その生活がどのようなものであったかを思い遣った上で「エパタ」と言われたのでしょう。今日、主にある私たち一人一人に対しても、御霊ご自身が深いうめきによって(ローマ8:26)、とりなし、導いてくださいます。私たちは、先のスロ・フェニキヤの女のように、主の前にへりくだって願い求め続け、聖霊による最善の導きのもとに歩を進めてまいりましょう。

●8月31日礼拝メッセージ要旨(マルコ7:1~23)

 このとき、ガリラヤ方面におられたであろうイエス様の所に、エルサレムからパリサイ人や律法学者が来て、イエス様に質問をします。彼らは、弟子たちが、手を洗わないで食事をしているのを見て、なぜ洗わないかと言います。すると主は、「口先で神を敬っても、その心は遠く離れている。」と言われ、外からのものが人を汚すのではなく、人の内側から出るものが人を汚すということを教えます。ここから、ポイントを三つ上げて学びましょう。
  ①人間の言い伝え…当時のユダヤ人はモーセの律法を拡大解釈し、律法の教えから逸脱した人間の教えを教えとして言い伝え、人々の生活を却って不自由にしていました。聖書の教えか、人の言い伝えか、それは、今日の私たちの生活にも当てはまることです。私たちは、真に幸いと祝福をもたらす聖書の教え、すなわち、キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しましょう(コロサイ2:7)。
  ②人から出るもの…創造主が最初の人を形づくったとき、創造主のかたちに似せてつくりました。それは、罪なく、地のすべてのものを支配する賢い存在としてでした。しかし、人に罪が入り、死ぬ者となってしまいました。ですから、人は、一方で神に似せて造られているものの、一方では罪の性質を併せ持った存在なのです。良いことをしようという部分もありながら、内側からは罪の性質も厳然として持つのです。しかし、神のひとり子イエス・キリストが来られ、その十字架の贖いにより罪のきよめのわざを成し遂げられました。私たちは、まず自分が罪人であるということを認めること、そして、イエス様によって創造主に結び合されて、神の栄光のために生きようではありませんか。
  ③外側と内側…外側と内側、どちらが大切か。誰もが内側が大切だと知っています。でも、知ってはいても、外側を優先してしまうのが私たち人間です。もちろん、外側もある程度大切です。第一テモテ4:8には「肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」とあります。つまり、私たちは、内側を強くすることです(エペソ3:16)。そのために必要なことは、聖書を読むこと、祈ることです。それを実質的に実行するためには、礼拝はもちろん、教会の各集会になるべく参加することです。そこから、内側が強くされ、創造主のご性質をいただき、救霊の思いに満たされていくのです。

●8月24日礼拝メッセージ要旨(マルコ6:45~56)

イエス様は、5000人のパンの奇跡のあと、弟子たちを舟に乗り込ませ、群集を解散させて、御自身は、祈るために山に向かわれました。夜中の3時頃になって、弟子たちが向かい風のため舟をこぎあぐねていると、そこにイエス様が、湖の上を歩いて通り過ぎようとされました。弟子たちはそれを見て幽霊だと思い恐がりました。その後、舟はゲネサレの地に着き、多くの病人がイエス様のところに運ばれてきました。さて、ここからポイントを三つ上げて学びましょう。
①恐れることはない…怯えている弟子たちにイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。モーセが出エジプト記3章で、神に出会い、その名を尋ねると「わたしは『わたしはある』というものである。」と答えられました。その同一の神であるイエス様が「わたしだ。」と言われたのです。永遠から永遠に存在し、全知全能で頼りになるこの方が共にいるなら何も恐れることはありません。とは言っても、私たち人間は弱い者です。旧約時代の預言者エリヤは、バアルに仕える者たち450人と対決して圧倒的な勝利をした後、アハブ王の妻イゼベルから命を狙われると、恐れて逃げ、洞穴に隠れました。そのとき、主がエリヤの前を大風と地震をもって通り過ぎられ、「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と、細き御声を掛けられます。エリヤが主に不満を訴えると、主はそれには直接答えずに「さあ、ダマスコに行きなさい。」と、次にすべきことを指示されます。私たちも、主が共にいれば恐れることはありません。あれこれ悩むことは不要です。次に何をすべきか、それを教えていただき、それに従っていくことです。
②堅く閉じた心…湖の上を歩かれるイエス様を見た弟子たちは、それがイエス様であると認めることはできませんでした。その数時間前にはパンの奇跡を見ているのですが、この時点で彼らは、イエス様をただの預言者の一人に過ぎないと思っていたのでしょう。53~56節では、多くの人々がイエス様に病のいやしを求めて押し寄せています。懐疑的な弟子たちとは対照的です。もちろん、熱心でありさえすれば良いということはありません。単純で素直に信じる姿勢と同時に深い知識も併せ持つことも必要です。
③祈られたイエス様…46節でイエス様は、祈るために一人で山に向かわれました。同じマルコ1:35にも「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。マタイ6:6には「奥まった部屋で祈りなさい。」とあります。イエス様はバプテスマを受けられ、私たちが進むべき模範となられました。祈りに於いても、私たちの模範となられています。私たちも、祈りを優先し、ますます主との交わりを深め、何をすべきか教えていただきながら進みましょう。

●8月20日祈祷会メッセージ要旨(箴言25章)

2節に「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」とあります。神が行われることを私たちは見極めることはできず、分からないことばかりです。しかし、そういう中にあって、私たちは、神の意図するところを探ることも意味あることです。当時、ソロモン王は神からの特別な知恵が与えられていて、事を探り極めたことでしょう。
11~12節では、時宜にかなったことば、知恵のある叱責に対して称賛していますが、人を生かす知恵に満ちた適切なことばを語りたいものです。
13節では、「忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。」とありますが、今のような真夏の盛りには冷たいものが喜ばれます。天の主に喜ばれるような忠実な信仰生活を過ごしましょう。
15節では、忍耐強く説くこと、柔らかな舌に対する効能を言っています。
21~22節では、憎む者に対して善を行なうことは、彼の頭に燃える炭火を積むことだと言っています。ローマ人への手紙12:20に同じような内容の記事があります。第二列王記6:22では、預言者エリシャが、アラムの軍隊を盲目にさせて、サマリヤまで連れて来たとき、イスラエルの王がエリシャに「私が打ちましょうか。」と聞くと、エリシャは、「飲み食いさせて帰しなさい。」と言います。敵に善を施す思想は旧約時代からあったようです。
最後の節、28節には、「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ち壊された町のようだ。」とあります。逆に表現すると、自分の心を制する人は、堅固な城壁のある町のようであると言えます。自分の心を治めるというのは、結局、知恵者になるということです。イエス様はソロモンにまさる知恵がありました(マタイ12:42)。私たちは、そのイエス様から知恵をいただきましょう。祈りとみことばにより、主からの知恵によって歩ませていただきましょう。

●8月10日礼拝メッセージ要旨(マルコ6:30~44)

30節からは、同章の13節の続きです。イエス様に遣わされて、帰ってきた弟子たちが、休むこともできないでいると、イエス様が彼らに舟で休める所に行くようにと言われます。しかし、舟で別の場所に行ったものの、そこにまた群衆が追っかけて来ていたのです。イエス様は、彼らを羊飼いのいない羊のようであるのを見て、深くあわれんで、色々と教え始められます。そのあと、パンの奇跡が起こりました。ここから、3つのポイントで学びましょう。
①羊飼いのいない羊…聖書ではよく、私たち人間のことを羊にたとえています。イエス様が言われる羊飼いのいない羊とはどういうことでしょうか。例えば、日本の社会システムを考えて見ますと、自治体や町内会などしっかりしていて、住民の孤立を防いだり、治安を守るためにも機能しています。しかし、それは、一人一人の魂の救いとは無関係です。いくら社会システムがしっかりしていても、また、その人が優秀であっても、魂の牧者であるイエス・キリストに出会わなければ、真の安らぎを持つことはできません。
②パンの奇跡…五つのパンと二匹の魚を配ると、5000人が満腹をしたというのですから、大変な奇跡が起きました。エリヤの時代に、シドンのツァレファテで、一人のやもめが残った一握りの粉で最後のパンを作って死のうとしていました。しかし、エリヤの求めに応じて、作ったパンをエリヤに与えると、かめの粉が尽きることはありませんでした。神の栄光のために何か行動するとき、そこに奇跡が現れます。
③弟子の訓練…5000人の人たちにどうやってパンを配るか。イエス様は、50人、100人づつ組にして座らせました。後に、使徒2章では3000人、4章では5000人が救いに導かれていますから、この時の経験が役に立ったことでしょう。教会はキリストのからだであり、一人一人がキリストのからだの部分として機能することを求められています。クリスチャンは、自分が救われるためだけに救われたのではなく、他の人を救うため、教会を建て上げるために救われたのです。