ルカ9:37~50から、「山から降りてくると」という題で、ポイントを三つ上げて学びましょう。
①山から降りてくると…ペテロとヨハネとヤコブを伴って山に登られたイエス様は、そこでお姿が変わられました。ペテロたち三人にとっては、正に、荘厳な神のご威光を目の当たりにし、非常に霊的恵みを受けて山を下りてきたことでしょう。しかし、下山すると、下界と言いましょうか、ふもとは大変な状態でした。悪霊につかれた息子を連れて、一人の父親が助けを求めてやって、「お弟子たちにお願いしたが、お弟子たちにできなかった。」と言いました。するとイエス様は「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。~」と言われ、汚れた霊を叱って、その子をいやし、父親に渡されました。その問題とは違いますが、ここのところ、私(筆者)は非常に忙しくしていました。会堂建設中は業者さんに任せていれば良かったのですが、完成引き渡しが終わると、引っ越しやら環境整備やらで大忙しでした。そんなときこそ、イエス様に心を向けて祈らねばならないことはよく承知していましたが、やはり、忙しさそのものに心が奪われてしまいがちです。「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する。(第一テサロニケ5:16~18)」ことができたら、きっとイエス様に「不信仰だ。」ではなく「立派な信仰だ。」と言われることでしょう。
②誰が一番偉いか…この世の価値観においては、偉くなること、稼ぐこと、有名になること、権力を持つこと、そういったことが尊いこととされますが、イエス様は「偉くなりたい、人の先に立ちたいと思う者は、仕える者、しもべになれ。」と言われました。私たちの目標はキリストのからだなる教会をたて上げることですが、そのために、偉いか偉くないかではなく、それぞれの賜物をもって適材適所に用いていただき、互いに仕えあうことです。
③あなたがたの味方です…韓国はキリスト教国と言ってよいほど教会も多く、クリスチャンも多いのですが、一方では偽キリスト教もはびこっています。その影響が日本にも及び、気をつけねばなりません。そういったことをしっかり踏まえた上で、49~50節を見ますと、イエス様の弟子たちが、自分たちの仲間ではないのでイエスの御名で悪霊を追い出している人を見て止めさせたと言ったとき、イエス様は「やめさせることはありません。」と言われました。今日、私たちは、自分たちだけを良しとする独善主義に陥りやすいのです。真理のみことばに立つ多くの主にある教会、団体、また特に近隣の教会を尊敬し、良い関係を築きたいものです。使徒信条には「聖なる公同の教会」とあります。この地上で、教会名は違っていてもイエス・キリストの十字架によって天では一つの体なのです。