●2021年3月21日(日)礼拝メッセージ「わたし(キリスト)を覚えて」 

第一コリント11:17~34から、聖餐式と食事会に関しての記事からポイントを3つ上げていきます。

①「聖餐式と食事会」…当時のコリント教会では、集まりをするとき、分裂、分派があったようです。パウロは、本当の信者が明らかにされるためには、それもやむを得ないと言っています。そのことと併行して、聖餐式とそれに伴って行われる食事会のことに言及しています。それぞれ持ち寄った食物を皆で分けて食べるべきところを、富む者たちが独占して、貧しい者たちをないがしろにしたようです。聖餐式は、キリストの十字架の犠牲を覚える儀式です。その聖餐式に与った者が、その直後に行なわれる食事会で、その精神に反する行動をとるとは、本末転倒です。ところで、今日、多くの教会では当たり前のように、集まると食事会を行なっていたものです。ところが、昨年の春ごろから新型ウィルスの問題が波及し、それが出来なくなりました。クリスチャン同士で食事を共にしながら交わる(会話する)ということは、楽しく意義深いことだと思います。なぜ、このことが出来なくなったのか、今は分かりません。ヨハネ13:7にはキリストが「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われました。コロナ終息後、再び食事会が出来るようになったなら、その時を以前よりももっと充実したものにしていければと思います。

②「わたし(キリスト)を覚えてこれを行ないなさい」…プロテスタント教会で定められている聖礼典は、洗礼式と聖餐式です。洗礼(バプテスマ)はイエス・キリストを信じて従って行くことを神と人の前に表明し、誓約することです。聖餐式は、救いを完成されたキリストの十字架の死、わき腹を槍で突き刺され、手足を十字架に釘づけられ血を流されたことを思い起こすための儀式です。イエス・キリストを覚える、それは、十字架の犠牲のみならず、そこに至るまでのキリストの歩みを覚え、キリストを模範とすることでもあります。クリスチャン新聞福音版4月号に、コメディアンの明石家さんま氏のことが書いてありました。さんま氏には「生きてるだけで丸儲け」というギャグがあるそうですが、それは師匠の笑福亭松之助さんの教えから来ているとありました。松之助師匠は、キリスト教の人生観に影響を受け、自分の子供さんたちを教会学校に通わせたそうで、さんま氏にもクリスチャン作家の本を読むように勧めたとのことです。その記事は、「暗い思いになっても感謝を」という題で記されたものです。世は、フェイスブックやツィッターで「つぶやく」ということが勧められていますが、元々の「つぶやき」の意味は不平不満をいう事です。クリスチャンはつぶやきよりも感謝をささげましょう。ヨハネ11章で、ラザロが死んだとき、キリストは死後四日してから、ラザロが葬られた墓の前で「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。(ヨハネ11:41)」と祈られたあと、ラザロを生き返らせました。感謝して祈るとき、神はその人を祝福し、素晴らしい奇跡を現わされるのではないでしょうか。

③「自分を吟味する」…車に乗っている人は、車の点検を怠ってはなりません。オイルやタイヤの空気圧などのチェックが常に必要です。それ以上に私たちは、自分自身の心を点検することも必要です。詩篇139:23~24には「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。聖なる神様と自分との間に罪が邪魔をして、神様が見えなくなったり、祈りが聞かれなくなったりしないように、いつも悔い改めの祈りをして、自分をきよく保っていきましょう。第二のポイントで語ったように、まず、キリストを覚え、主を見上げつつ、自分自身の心も点検しながら歩んでまいりましょう。

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