●2021年3月28日(日)第一礼拝メッセージ「十字架の奥義」 

今年2021年のイースター(復活祭)は4月4日です。そうすると、今週はキリストが十字架で死なれた受難週ということになります。そこで、本日はマタイ27:27~44から、キリストの受難を覚えて「十字架の奥義」という題で学びましょう。キリストの十字架によってもたらされる恵みは数えきれないでしょう。でも、頭の中で整理するためにも三つにまとめてお話しします。

「罪の赦し」…罪のない神の御子イエス・キリストが何のために十字架におかかりになったのでしょう。それは信じる者の罪を赦すためです。そもそも「罪」とは何でしょうか。悪いことをする。法律に違反する。そういったことも罪ですが、聖書で「罪」というとき、それは、その人の心の状態のことを言います。新約聖書のギリシャ語原語で罪のことをαμαρτία(アマルティア)と言い、「標的を射そこなう(的を外す)」という原意があります。言うなれば、的外れな人生を送ることが罪であるということです。この世界は自然や偶然に存在しているのではありません。創造主である真の神が天地を造り、そこに住む私たち人間を形造り生かしておられます。その創造主であり、聖なる神様を無視して生きることが罪であり、罪人に対して、神は正しい裁きを下すのです。しかし、神は人を愛し、その裁きから救い出すために、御子イエス・キリストを世に送り、十字架による救いの道を備えたのです。ローマ3:23~24には「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。私たちは、キリストの救いを信じ受け入れ、罪赦されて義とせられ、神の目的のために、神の栄光を現わすことを求めてまいりましょう。

「解放と自由」…キリストが十字架におかかりになったのは、私たちを悪魔の奴隷から解放するためです。今から3500年ほど前、BC(紀元前)1500年頃のこと、エジプトで奴隷になっていたイスラエル人が解放されました。解放の決め手になったのは過ぎ越しの出来事です。神の怒りがエジプト全土に及んだとき、イスラエル人の家の二本の門柱とかもいには傷の無い一歳の雄羊の血が塗ってあったので、神の怒りが過ぎ越しました。しかし、エジプト人の家は何もしていないので、神の怒りが及びました。それゆえ、イスラエル人はエジプトの奴隷から解放されたのです。ヘブル2:14~15には「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。悪魔の支配下にあって、死の恐怖におののきながら生きるのではなく、イエス様を信じて悪魔から解放され自由となり、永遠のいのちの希望と喜びの中を歩みましょう。

「豊かな人生」…イエス・キリストは、ベツレヘムで人として生まれられたとき、飼い葉おけに寝かされました。30歳の頃、公に人々の前に姿を現されたとき、「人の子には枕する所もない」と言われた通り、決まったご自分の家を持ってはいませんでした。最後は、何の罪も犯していないのに、鞭打たれ、つばきを掛けられ、罵られ、十字架にかけられました。第二コリント8:9には「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあります。キリストを信じる者は富む者とされるのです。キリストを信じて神の子どもとされ(ヨハネ1:12)て、キリストとの共同相続人となる(ローマ8:17)のですから、クリスチャンであるということは、永遠の莫大な富の所有権者なのです。但し、この世で生きている限り、色々な戦いや試練があるものです。しかし、キリストにある者は特別に扱われ、祈るとき、主がこたえてくださる(詩篇4:3)のです。そして、クリスチャンには、インンマヌエル(神は私たちと共におられる)と呼ばれるイエス様がいつも共にいてくださるのです。

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