●2022年5月8日(日)礼拝メッセージ要旨

ピリピ1:19~30から「生きることはキリスト」という題でポイントを三つ上げて行きます。

①生きることはキリスト… 昔(45年程前)の思い出です。静岡県の山奥の山道をどんどん上った場所にプールやテニスコートなどを備えた施設があり、そこで教会主催の青少年を対象にしたキャンプが行われていました。当時、筆者は洗礼を受けたばかりで、初めて参加したときは、本当に楽しく、恵みを受けたことを覚えています。それは、この世のテレビや新聞などの情報網から隔離され、聖書のことば、祈り、クリスチャン同士の交わりの中に置かれ、心の中に入ってくるものはキリスト教的(聖書的)なものばかりだったからです。最近はコロナ渦で、どこの教会もそういったキャンプの実行には躊躇していることと思いますが、環境さえ整えば、実現したいところでしょう。つまり、クリスチャンとして、成長し、生活の全てがイエス・キリストで満たされるようになることが理想です。パウロの場合は、そこからさらに「生きることはキリスト、死ぬことも益です」と、「死」さえもキリストの御名が崇められることを求めていたのです。

②福音にふさわしく生活しなさい…パウロは元々、ユダヤ教の熱心な信者で、キリスト者を迫害していました。しかし、エルサレムからダマスコ途上で聖霊なるキリストに出会い、回心したあと、今度はキリストの福音を熱心に伝道しました。パウロの宣教は驚くべきもので、短期間のうちに当時の世界に対して、福音によって大きな影響を与えました。しかし、それゆえに捕らえられ、囚人とされました。今日、ヨーロッパでは、キリスト教文化が根付いています。それだけ、キリスト教による社会生活へ大きな影響力があったのです。日本は明治になって、欧米先進国からキリスト教の解禁を迫られ、ようやくのこと信教の自由(キリシタン禁制の高札が撤去される)が認められるようになりました。そして、第二次世界大戦が終戦になってから、日本に民主主義、男女平等、婦人参政権が定着するようになりました。但し、最近(ここ数年)の日本はそういった歴史に逆行するような兆候も見られ、民主主義国家であるにもかかわらず、報道の自由度世界ランキングでは71位という低い位置に降下しています。「主の祈り」の中に「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という文言があります。クリスチャンが教会から世に出て行き、キリストの福音によって、社会に良い影響力を及ぼしていかねばなりません。

③キリストの苦しみをも賜った…全ての人は、この世において、重荷や苦しみを持って生活しています。クリスチャンには、罪の赦しがあり、義とされて、神の子どもとされ、生きる目的が与えられ、希望があります。しかし、また別の苦しみがあります。第二テモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。クリスチャンとして誠実に、且つ熱心に歩むとき、迫害もあるのです。ロシアがウクライナに侵攻するとき、プーチン大統領はロシア正教のトップと会談し、その人の支持を得ているとのことです。どう考えても敬虔に生きるはずのキリスト者であるなら、ウクライナ侵攻を支持することはできないでしょう。結局のところ、その背後には霊的な戦いがあるのです。エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。悪魔と行動を共にして悪魔と同じ地獄に行くのか?それとも、たとい迫害を受けてもイエス・キリストとともに苦しむか?どちらを選ぶべきでしょうか。もちろん、イエス・キリストと共に歩む道を選びましょう。

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