●2022年10月23日(日)礼拝メッセージ要旨  

 第二テサロニケ1:1~12からです。第一の手紙が書かれたあと、数カ月後、再臨に対する誤った見解を持つ人たちがいて、それを正すために、この第二の手紙が書かれたようです。「神の国にふさわしい者」という題で、ポイントを3つ上げて行きます。  

①神の国にふさわしい者…かつてパウロは、御霊に導かれ、アジアからマケドニヤに渡りました。最初にピリピで伝道し、次にテサロニケで伝道しました。少なからぬ人々が信仰に導かれました。ところが、ユダヤ人たちから激しい迫害を受け、パウロたちはベレヤに行き伝道しました。それを聞いたテサロニケのユダヤ人たちは、ベレヤにも乗り込んで来て、迫害をしたのです。つまり、テサロニケの教会の人々は、激しい迫害の中で信仰をしっかりと保っていたのです。現在、私たちが暮らす日本では、今のところ、そういった迫害は殆どありません。でも、多少の霊的戦いのようなものはあります。例えば同調圧力のような10人中、9人が白を「黒い」と言えば、一人だけ「白い」と言うのは勇気が必要です。そんなとき、回りの人々はクリスチャンの行動を見ているもので、妥協すると、「なあんだ、それでもクリスチャンか」と思われます。どっちにしても悪口言われるなら、クリスチャンらしく、信仰に堅く立ったほうがいいでしょう。

②永遠の滅びの刑罰…筆者が、聖書を読み始めた頃、聖書に対して一番の問題点として注目したのは「永遠の滅びの刑罰」ということでした。そんなものはないということなら、キリストを信じなくても関係ないということになります。しかし、それが本当に実在するならば、キリストを信じなければなりません。聖書には、この第二テサロニケ1:9の「永遠の滅びの刑罰」の他に、マタイ25:46の「永遠の刑罰」、マルコ9:48の「ゲヘナには人を食うウジと消えない火がある」、ヨハネ3:36の「御子に聞き従わない者に神の怒りがとどまる」、ダニエル12:2の「ある者はそしりと永遠の忌みに」、黙示録20:15の「いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」と、これだけではありませんが、確かに聖書には永遠の裁きがあることを語っています。ですから、私たちは、まず、自分自身が、この永遠の滅びから免れるために、主イエス・キリストの福音を信じ、受け入れ、そして、その信仰を保っていきましょう。そして、自分だけの救いで満足せず、私たちの回りの人々のことを覚え、人々のために祈り、執り成し、福音をお伝えしましょう。

③主にあって栄光を受けるため…イエス・キリストが再臨されると、そのとき、クリスチャンたちは一瞬にして永遠の体に変えられて、それによって、主の御名が崇められるでしょう。そのとき、クリスチャンたちは本当に「ああ。イエス様信じていて良かった。」と、心底喜ぶことになるでしょう。ですから、私たちは、この地上にある間に、神の栄光を現わすことを求めていきましょう。福音歌手として用いられている森祐理さんは、NHK教育テレビ「ゆかいなコンサート」の歌のお姉さんでした。そんなとき、夢見ていたミュージカルの主役に抜擢されました。しかし、喉を傷めて、それを辞退することになりました。この挫折がきっかけとなり、祐理さんは福音歌手として立つことになりました。ところが、1995年1月17日の阪神淡路大震災によって、祐理さんの弟さんが亡くなられました。彼は神戸大学の学生で住んでいたアパートが倒壊し、その犠牲となったのです。そのとき、祐理さんは悲しみの中に留まり続けるのではなく、自分を応援してくれていた弟さんから押し出されるように、被災地に出て行って歌いました。その延長で、2016年3月12日に当つばめさわ教会開設記念コンサートでも歌ってくれました。また、今年8月14日にはウクライナ西部の避難所となった学校や教会でも歌っています。第二テサロニケ1:12に戻りましょう。私たちは、主イエスの御名が崇められることを求めましょう。そうすることによって、私たちも主にあって栄光を受けることになるのです。最後に詩篇126:5~6です。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」

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