●2022年12月4日(日)礼拝メッセジ要旨  

 第1テモテ3:1~16から、教会の監督、執事についての記事です。教会の監督とは牧師とほぼ同じような立場の人のことです。執事とは、教会によっては役員とも言うでしょう。ポイントを3つ上げていきます。

監督について …1節で「『人がもし監督の職に就きたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである』ということばは真実である。」とあります。聖書の他の個所に、何かの職種について、このように記してあるのを見たことはあるでしょうか。それだけ、教会の働きを担うことは素晴らしいことなのです。但し、その監督の職は、神の召命を受けて、その務めに任じられます。それは、天の神様とその人との関係の中で示されることで、第三者には見えないことです。もう一つは、監督の職に相応しい資質と姿勢を備えていなければなりません。2~4節に「非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。」とあります。この基準というのは、監督(牧師)だけではなく、すべてのクリスチャン男性に当てはめてもよいのではないでしょうか。

②執事について …9節では、執事について「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。」と言っています。それは、目に見えない全知全能の聖なる神様をいつも思い、聖書のみことばに従って過ごす生き方です。また、「大酒飲みでなく」とありますが、監督の場合は「酒飲みでなく」とあって、「大酒飲みでなければよいのか?」と解釈する人がいるかもしれません。そんな低レベルの理屈に振り回されることなく、監督だろうが執事だろうが、一般信徒だろうが、スパッとアルコールを断つことです。飲酒運転もすることはないし、酩酊からも守られ、体の健康も保たれます。婦人執事も「威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、全てに忠実な人」とあります。その人の人格というのは、その人の語る言葉そのものとも言えます。私たちは悪い言葉を口にせず、むしろ、前向きな信仰の言葉を語る者となりましょう。この執事についての基準も、監督の基準と同じように、全てのクリスチャンに当てはめても差し支えないでしょう。

神の家 … 神の家とは教会のことです。教会とはギリシャ語原語ではエクレシア(ἐκκλησία) です。エクレシアには「呼び出された者」という語源的な意味が含まれています。イエス・キリストの教会は、イエス様によって呼び集められた者たちの集まりなのです。エペソ1:23には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。教会には、イエス様、つまり聖霊が共におられるのです。聖霊は、いっさいのものを満たすことがおできになるのです。ですから、教会の礼拝に参加するということは、この上ない祝福の中にいるのです。どこの国やどこの町に旅行に行くことよりも、教会(健全な)に来て、礼拝に参加することに大きな価値と祝福があるのです。16節には「キリストは肉において現われ」とあります。今年も12月になり、クリスマスシーズンに入っています。世界中において、日本においてもクリスマスがお祝いされます。しかし、救い主イエス・キリストの十字架と復活を心底信じて、キリストと共に生活している人はどれほどいるでしょうか。マタイ7:13には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」とあります。大勢の人が行くから、その道は大丈夫ということはありません。それは案外危険な道かもしれません。狭くても、真実な道、聖書の教えに基づいた信仰の道を進んでいきましょう。

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