ヘブル人への手紙6:1~20から「成熟を目ざして進もう」という題でポイントを4つ上げていきます。
①初歩の教えをあとにして…ここでは、6つの「初歩の教え」が記されています。「死んだ行ないからの回心」とは不品行、偶像礼拝、酩酊、遊興などを悔改めて、聖なる真の神と共に歩むことです。「神に対する信仰」は救い主イエス・キリストを信じる信仰です。「きよめの洗い」とはバプテスマのことでしょうか。「手を置く儀式」とは按手の祈りのことでしょうか。「復活」はキリストの復活というよりも、キリストと同じように復活に与ることができる信者の復活のことでしょう。「永遠の裁き」とは、この世界は創造主なる真の神によって造られたのに、「この世界は偶然に出来た進化した」と言って、真の神を蔑ろにする人々に対して、当然のように神の滅びの刑罰があることを知らなくてはなりません。私たちは、こういった基礎的なことを再びやり直したりせず、むしろ成熟を目ざして進みましょう。
②いばらとあざみを生えさせるなら…ヘブル6:4~6には「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」と、厳しいことが記されています。この、一度光を受けた人は、相当に恵まれた人です。しかし、そういう人だからこそ、堕落すると、多くの人に躓きを与えることになるでしょう。大地が天からの恵みを受けて有用な作物を生じるなら、神から祝福を受けます。それと同じように、私たちは神の恵みを受け、神の栄光を現わして行きましょう。基本的には、神は私たちが悔い改めるなら、罪を赦してくれます。しかし、赦されない罪があります。それは、マタイ12:13に「~人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」とあるように、御霊に逆らう冒涜、この文脈では、悪霊に憑かれて目も見えず口もきけない人を癒したキリストに対し、一人のパリサイ人が「悪霊どものかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言ったので、それに対してキリストは「御霊に逆らう冒涜は赦されません」と言われたのでしょう。
③もっと良いことを…4~8節では厳しいことが書いてありましたが、9節では、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています」と言っています。私たちは、イエス・キリストによる救いを受け、希望を持ち続け、信仰と忍耐によって約束のものを受けたアブラハムに倣う者となりましょう。サッカーJ2ベガルタ仙台の背番号35番・ブラジル出身のフォギーニョ選手の好きな言葉・座右の銘は「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通します。」です。これは、第二テモテ4:7のみことばでしょう。聖書の文の最後は「守り通しました」ですが、過去形では違和感があるので、現在形で表現したのでしょう。詳しいことは知りませんが、こういう聖書のことばを知っているということは、たぶん、フォギーニョ選手は熱心なクリスチャンかと思います。こういう形で大胆にキリスト者として証しすることは素晴らしいことです。
④あなたを祝福し、あなたを大いにふやす…神はアブラハムに対して、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」と言われました。その祝福をアブラハムの子孫が受け継いでいるのですが、今日、まともなクリスチャンであるなら、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、そのアブラハムの祝福を受けています(ガラテヤ3:13~14及びエペソ1:3参照)。神はアブラハムを祝福したとき、自らに誓って祝福したので、その祝福は揺るぎないものとなっています。ですから、私たちは慢心することなく、基本に忠実に、礼拝、聖書のことば、祈り、そして宣教または証しの生活を志し、平和を追い求めて歩もうではありませんか。