●2023年5月7日(日)礼拝メッセージ要旨

ヘブル人への手紙5:1~14から、「大祭司としてのキリスト」という題でポイントを3つ上げていきます。

①大祭司になる条件 …そもそも祭司とは、神と人とを仲介し、結び合わせる役目をします。その祭司の役目を担えるのは、人間としての弱さを持ち、迷っている人を思い遣ることのできる、人々の中から選ばれた人です。そして、その人は祭司として神から立てられた人です。キリストも大祭司として天の父なる神様から立てられ(詩篇2:7)、しかも、単なる祭司ではなく、メルキゼデクの位に等しい祭司として立てられた(詩篇110:4)のです。もちろん、言うまでもなく、イエス・キリストの第一義的な使命は十字架による救いです。その救いを完成したあと、復活して天に昇られ、父なる神の右に座して、第二義的にキリストを信じる人々のために執り成しをされておられるのです。ヘブル7:24~25には「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とありますが、正にその通りなのです。

②人としてこの世におられたキリスト…ヘブル5:7には「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と書いてあります。このキリストの祈りは、二つの場面が考えられます。一つはゲッセマネの園での祈り、もう一つは十字架上で息を引き取られる最後の祈り(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)です。特に、ゲッセマネでの祈りでは「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(マルコ14:36)」と祈られています。確かに、十字架を免れることはありませんでしたが、神のみこころが成され、今日、キリストを信じる全ての人々が救いに与ることが出来るのです。

あなたがたの耳が鈍くなっている … 11節では「この方について話すべきことをたくさん持っている」とあります。新改訳聖書第三版では「この方について」が※あるいは「このことについて」という注釈が付いています。2017訳聖書では「この方」が「メルキゼデク」と言っています。キリストとも言えますが、キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司ですから、どちらでも間違いとは言えません。いずれにしても、私たちは、その大祭司について、しっかりと理解し、霊的幼子ではなく、霊的な大人のキリスト者とならねばなりません。先日、筆者は、テレビで元サッカーJリーグの選手で、現女子サッカー監督・森山泰行さんのインタビュー番組を観ました。森山さんは現役時代に、チームの監督がフランス人に代わってから、先発出場が無くなりました。そのとき、それを不満に思い、チームを去って、他チームに移籍しようと考えました。しかし、彼の妻は「どこに行っても、また同じことの繰り返しよ。」と言いました。彼は妻の言う事も一理あると思い直し、考え方を変え、むしろ途中出場に照準を合わせて準備するようにしました。すると、それがハマり、途中出場で得点してチームを勝利に導くことが多くなりました。それは正に大人の考え方をするようになったということなのです。コロサイ3:12には「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」とあります。いつまでも、子どものような考え方の中に埋没していてはなりません。実は、聖書にはキリスト者は「祭司」であると書いてあるのです。第一ペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と、キリスト者は「王である祭司」なのです。

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