黙示録22:1~21からです。今年4月28日(日)から黙示録に入り、この10月20日(日)で最後の黙示録となりました。何かあっという間でした。振り返ってみると、黙示録は意外に、黙示録以外の聖書の他の箇所との関連も少なくなかったと思います。今回もポイント3つ上げていきます。
1.いのちの木…黙示録21章では、天の都の大きさ、また、その素材と言いましょうか、この今の世においては宝石とされている鉱物などで出来上がっているようです。それだけを見ますと、何か無機質な感じもします。しかし、22章に入りますと、都の大通りの中央に、水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木があって、12種の実が成り、毎月実が成るというのです。さらにその木の葉は民をいやした、とありますから、決して無機質ということはありません。そして、3節では「もはや、のろわれるものは何もない」とあります。先日、私は教会の建物回りの草刈りをしました。草刈り機を物置から出し、準備をしていると、いつものように蚊が襲ってきます。肌の出ている耳元などを狙ってきます。また、今年は温暖化の故でしょうか、これまで西日本方面にしか見られなかった緑色のカメムシを時々見ます。蚊もカメムシも、好きだという人は聞いたことがありません。想像に過ぎませんが、天の都では蚊もカメムシも存在しないでしょう。もし、見つけたとしても人に刺さないし、強烈な悪臭も放たないでしょう。つまり、のろわれたものは何もない世界が天の都です。暗闇、夜もありません。死も、悲しみ、叫び、苦しみもありません。イエス・キリストの十字架の救いを信じる信仰によって、そこに入らせていただくとすれば何という祝福、何という幸いでしょう。
2.この書の預言のことばを堅く守る…6節で御使いがヨハネに「これらのことばは信ずべきものであり、真実なのです。」と言っています。今日、私たちには、聖書が与えられています。その聖書が調達されるために、全知全能の真の神様の御手があったことは言うまでもありませんが、多くの先人たちの管理や写本、翻訳その他諸々の尽力によって私たちの手元に貴重な聖書が届けられています。現在、旧約39巻、新約27巻、合計66巻が聖典とされています。当教会教義では、この正典とされている66巻を「天地万物の創造主である神の霊感による全き神のことばであると信じる」と、しています。もう一点、大切なことは、聖書のことばの受け止め方です。「リベラル」という言葉があります。自由主義という意味です。政治的なリベラルというと、穏健で寛容な立場とみられていますが、神学的なリベラルということは、自由主義神学、つまり、聖書の記事の中で、人間の常識から見て理屈に合わないことは受け入れないという立場です。聖書に書いてあることをありのまま信じ受け入れる立場を根本主義、聖書信仰と言っています。その点に関して18~19節では、ヨハネのことばとして「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。ですから、やはり、聖書のことばに対して、私たちは、付け加えたり、取り除いたりせず、そのままを素直に信じ、受け入れることです。14節には「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」とあります。「自分の着物を洗う」とは、悔い改めイエス・キリストの十字架の救いを受け入れることです。
3・「すぐに来る」 「来てください」…当時ヨハネは、ローマ帝国による迫害により、パトモス島に島流しにされ、その所で、この黙示録を記しました。ある解説書ではAD90年頃だろうとありました。「すぐに来る」と言われているのに、それから1934年を経過しています。尤も、永遠の神の視点から見れば、1934年も一瞬のことかもしれません。しかし、今現在は、正に終末時代と言えるのではないでしょうか。ロシアとウクライナの戦争で、世界の注目が両国に向けられました。ところが、昨年10月7日のハマスによるイスラエルへの突然の残虐な侵攻により1200人の殺害と251人の連れ去りから始まり、直後のヒズボラからのイスラエルへのミサイル攻撃もあり、イスラエルはハマスの拠点のガザだけではなく、ヒズボラの拠点のあるレバノンへの反撃もしています。日本のニュースはいつものことですが、先に攻撃を仕掛けた側ではなく、反撃に出たイスラエルだけを非難しています(ニュースの供給元が反イスラエルメディアによる)。また、その背後にあって、反イスラエルの国々は結束を固めています。今後、世界はどうなるのでしょうか。色々な説があるのですが、Ⅱテサロニケ2:3には「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」とありますように、ダニエル書9:27で言われている「荒らす忌むべき者」の出現を注視する必要があります。その者はユダヤ教(恐らく)の神殿に自分の座を設け、「自分こそ神だ」と宣言します。ですから、そのユダヤ教の第三神殿が存在しないとそれも出来ませんが、ある情報では、その神殿を一晩で完成してしまうことができる準備がされているとのことです。そうなりますと、主の再臨は「すぐに来る」のです。それに対して、私たちは、必要以上にこの地上に浸っているのではなく、むしろ「主よ。来てください。」とキリストの再臨を待ち望む者でありたいと思います。最後はヘブル9:28です。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」