●8月2日礼拝メッセージ要旨(ルカ4:1~13)

イエス様が、悪魔の試みに会われた箇所から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①人はパンだけで生きるのではない。…御霊に導かれて悪魔の誘惑を受けることになったイエス様は、40日の断食をされ、空腹を覚えられると、悪魔が「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いなさい。」と誘惑しました。しかし、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と言われます。このみことばは、申命記8:3からの引用です。出エジプトしたイスラエル人は食べ物も何もない荒野での天幕生活をしました。そのとき、毎日天からマナ(パンのようなもの)が降り、生ける神に養われていることを実体験したのです。神によって生かされるのであるならば、神のみことばに従って生きるべきです。たとい、恵まれていても謙虚さを失わないようにしましょう。ダビデは、神殿建設を息子ソロモンに託し、神殿建設資材を整えたとき、「~すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものを、あなたにささげたにすぎません。」と祈っています。すべては神から出ている。故に、神のことばによって生きるのです。
②主を拝み、主にだけ仕えなさい。…次に悪魔は、イエス様に世界の国々を全部見せて、「私を拝むなら、すべてをあなたのものとしよう。」と誘惑します。イエス様は、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」と答えられます。エペソ2:2には、悪魔は空中の権威を持つ支配者であると表現され、今日の世界が一時的に悪魔の支配下にあることを示しています。その霊的世界の影響下で、実際に真実な聖書のみことばに思い切って従う人は多くなく、案外、偽りの教えには無数の人々が押し寄せています。悪魔に平伏せば悪魔と同じ結末が待っているだけです。私たちは、唯一で真の神にのみ従い、最後の最後まで信仰を守り通そうではありませんか。
③主を試みてはならない。…三つの誘惑すべてに共通しているのは、主なる神の栄光を求めるのではなく、自分自身の栄誉を求める誘惑です。三つ目の誘惑は、悪魔が巧妙に聖書のみことばを引用し、ある意味ハイレベルな誘惑とも言えます。しかし、それでもイエス様は冷静沈着に三度、聖書のみことばをもって誘惑を退けました。第一のアダム(第一コリント15:45~47)はエデンの園で悪魔の誘惑に負けて園を追い出されました。第二のアダムであるイエス様は、悪魔の誘惑にみことばをもって見事に勝利されました。私たちは、第二のアダムであるイエスさまに拠り頼み、日々、勝利と喜びの日を過ごしましょう。

●7月26日礼拝メッセージ要旨(ルカ3:21~38)

イエス様がヨハネからバプテスマを受けた記事とキリストの系図の記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①イエスのバプテスマ…本来、神のひとり子イエス様は、悔い改めのバプテスマを受ける必要はないでしょう。ただ、イエス様の地上での生涯は、私たちの模範として歩まれたのですから、良いことは率先して行なうという意味でバプテスマも受けられたのです。さて、そのバプテスマのとき、聖霊が鳩のような形をして下られました。鳩は従順の象徴として聖書に登場します。イエス様は、父なる神に従順に従い、実に十字架の死にまで従われました。使徒パウロは、かつて、クリスチャンを迫害していました。彼は神に逆らっていたのです。しかし、ダマスコ途上でイエス様に出会い、その後、悔い改めて、バプテスマを受け、今度は、誰よりも熱心に福音を伝える伝道者になりました。
②キリストの系図…マタイ1章の系図はヨセフの系図。このルカ3章の系図は、ヨセフの義父、つまり、マリヤの父の系図です。アダムからダビデまでは同じですが、ダビデから、ソロモンとナタンに分かれます。王権を引き継いだソロモンの系統がヨセフの系図、ナタンの系統がマリヤの父ヘリの系図です。このルカ3章の系図を見てみましょう。ダビデ以後では殆ど無名の人ばかりです。ダビデ以前では、ボアズ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、ノア、メトシェラ、エノク、アダムなどがよく知られています。ダビデは王、イサクはひとり子、ノアは救いの箱船、エノクは生きたまま天に上げられました。それぞれイエス様を表していると言えます。特にボアズは、ナオミとルツのために買い戻しの権利を行使し、彼女たちを助けました。イエス様は、多くの人の罪と煩いをその身に引き受け、十字架によって贖いのわざを完成されました。
③このアダムは神の子である…アダムは最初、神の子であったのに、罪を犯し、エデンの園を追い出されました。ここで紹介されているキリストの系図の最後に「このアダムは神の子である」と記されているのは、イエス・キリストによって、もう一度、神の子として回復される道があるという望みを表わしているのではないでしょうか。ヨハネ1:12には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。イエス様を受け入れ、その名を呼び求める者は神の子としての特権が与えられています。神の子には、キリストとの共同相続人として莫大な富が与えられ、また、この地上で、特別扱いを受け、祈り求めるとき、応えてもらえるのです。

●7月19日礼拝メッセージ要旨(ルカ3:1~20)

バプテスマのヨハネが宣教を開始した記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①悔い改め…ヨハネに神のことばが下って、ヨハネは悔い改めに基づくバプテスマをヨルダン川のほとりの全ての地方で説きました。ギリシャ語の原語では「メタノイア」という言葉が日本語で「悔い改め」と訳されているのですが、直訳的には、「考えを変える」というような意味となり、日本語に加味されている「悔いる」という意味合いはありません。確かに、誤ったことをしていたら、悔いることよりも、誤りを改めることが大事です。バプテスマのヨハネは、群集、取税人、兵士たち、それぞれに対して、生き方を変えるための具体的な勧めをしています。イエス・キリストを信じる者は、それにふさわしく、この世に支配された生き方から解放され、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝しつつ、歩んでまいりましょう。
②荒野で叫ぶ者の声…以前、路傍伝道ブームと言えるような時代もありました。やはり、どこかで、バプテスマのヨハネをモデルにしていたのでしょう。ローマ10:15には「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」とあります。ヨハネに神のことばが下って、遣わされたように、私たちもみことばによって励まされて、福音宣教に遣わされることが理想です。そのためにも、毎朝のディボーションを通して熱心に聖書を読み、みことばを心に蓄え、そのみことばが生活の中で口から表現されるとしたら素晴らしいことです。
③聖霊と火とのバプテスマ…今日、クリスチャンになるには水のバプテスマが施されます。そこに至るには、第一コリント12:3、13にありますように、何らかの聖霊による導きがあります。さて、ルカ3:16には「聖霊と火とのバプテスマ」とあります。17節で、火とは最後の審判の裁きの火でもありますが、16節の火はエネルギー、力の源としての火と言えるでしょう。モーセは、神の山ホレブで神の火を見て、出エジプトに遣わされました。イザヤはセラフィムのひとりが携えてきた火に触れて、神に遣わされました。使徒の働き2章では、炎のような別れた舌が現われて、使徒たちに臨み、初代教会が誕生しました。ローマ12:11には「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。私たちの心が冷たくてはいけません。熱くありたいです。そのためには、みことばと祈りによらなければなりません。

●7月12日礼拝メッセージ要旨(ルカ2:41~52)

12歳になられたキリストが、両親らとともに過ぎ越しの祭りにエルサレムの宮に行かれた時の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①イエスの知恵…エルサレムからの帰路、一日してから両親はイエスが一緒にいないことに気付きました。想像に過ぎませんが、両親は、イエスの弟たちに気を取られ、しっかり者の長男イエスに対しては信頼しきっていたため、そういうことが起こったのでしょう。エルサレムの宮に戻ると、イエス様は教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていました。人々は、このときのイエス様の知恵と答えに驚いていました。この当時、12歳のキリストの知恵はどれほどだったでしょう。旧約聖書のソロモン王も特別な知恵が与えられました。ソロモン王の知恵を聞いた人々は、王を恐れました。それは、天の神が下さる知恵です。ヤコブ3:17には「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあります。人間的な知恵とか打算ではなく、上から来る知恵によって、永遠の祝福につながる本当の知恵者となりたいものです。
②自分の父の家にいる…ようやくのこと、宮にいたイエスを探し当てたマリヤは、「まあ、あなたは、なぜ、私たちにこんなことをしたのですか。」と言うと、イエスは「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか。」と言って答えられました。神殿はそもそも神を礼拝する神の家でありますが、それと合わせて、御子イエスさまはいつも父なる神と共にいるということを暗に言われたのでしょう。私たちも、イエス様、聖霊様、天の父といつも共にいる者でありたいと思います。そのためにも、いつも主に心を向け、絶えず祈る者でありたいと思います。
③神と人とに愛された…私たちは、この見える世界に生き、見えない真の神を信じています。見えない神を第一にしつつも、見える世界を尊重しなければなりません。目の前にいる人が水が欲しくて渇いているのに、本を与えても読みたいとは思わないでしょう。新しく始まる「つばめさわ教会」も地域の人々のニーズに応答しながら、福音を満たして行きたいと考えます。また、教会は企業のように利潤を追求するためにあるのではありません。教会の存在目的、本質を見失うことなく、神にも人にも愛される、且つ、神と人とを愛する教会であり、一人一人でありたいと願います。

●7月5日礼拝メッセージ要旨(ルカ2:21~40)

きよめの期間が過ぎ、エルサレムの神殿に連れて来られた赤子のイエス様に出会ったシメオンとアンナの記事からポイントを四つあげて学びましょう。
①イエスという名…同じ1章58節で、バプテスマのヨハネが八日目の割礼の時、名を付けられていますが、同じようにイエス様も八日目の割礼の時に名を付けられます。もちろん、御使いがマリヤに命じておいた「イエス」です。日本語ではイエス。英語ではジーザス。ヘブル語を使うユダヤ人はイェシュヤと発音します。ヘブル語の文字表記ではヨシュア記のヨシュアと同じです。その意味は「主は救い」です。イエス・キリストは天地を創造した創造主のもとから来られた救い主です。
②献児式…男児の場合は7日+33日で40日、女児の場合は14日+66日で80日過ぎると、きよめの期間が満ちるということがレビ記12:2~8に記されています。それに基づき、ヨセフとマリヤは幼子を伴って、全焼のいけにえと罪のためのいけにえをささげるためにエルサレム神殿に来ました。全焼のいけにえというのは、「この子を主のものとしておささげします」という意味があるのでしょう。今日、教会では、赤ちゃんが生まれると、献児式を行ないますが、やはり、その子が聖なる神に仕え、神の栄光を現わす人生となるようにという願いを持って行なわれます。
③シメオン…シメオンは、御霊に感じて宮に入り、そこでイエス様にお会いし、神をほめたたえます。そして、特に母マリヤに対して「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。(ルカ2:34~35)」と預言します。今日、私たちは、良い事、正しい事していれば、人々の反対を受けないという保証はありません。むしろ、逆のことも多いのです。イエス様に従うことによって、反対や迫害を受けることが多々あります。しかし、イエス様に従わなければ倒れるのです。私たちは、主に従い、立ち上がりましょう。
④アンナ…アンナという人はアセル族のパヌエルの娘であると記されています。アセルとは元をただすと、ヤコブ(イスラエル)の息子で、レアの女奴隷ジルパから生まれました。イスラエル分裂時代の北イスラエルに属し、しかも目立つところのない部族です。その部族の子孫であるアンナは、84才で宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていました。血筋とか家系とかは、あまり重要ではありません。やはり、その人個人がどれだけ主に心を向けているかということです。

●6月28日礼拝メッセージ要旨(ルカ2:1~20)

キリスト降誕の記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①神の摂理…ヨセフと身重のマリヤは、ナザレにいたのですが、ローマ皇帝アウグストの勅令により、住民登録のためにベツレヘムに行かねばなりませんでした。ナザレからベツレヘムまで、地図上の直線では約100kmあり、実際の道のりはそんなものではなかったでしょう。ヨセフとマリヤにとっては「なぜこんなときに」と思ったことでしょう。皇帝アウグストとしては、そうせざるをえない何かが彼を動かしたのでしょう。結果的に、それはミカ5:2の預言の成就でもあったわけですし、また、宿が無いために飼い葉おけに寝かされていたキリストを探しに来た羊飼いたちへのしるしとなりました。当教会は、7月から、しばらく市民センターでの礼拝をすることになりました。理想としては、もっと早い段階で直接、新会堂への移転をしたかったのですが、でも、それも主の御摂理の下にあることを覚え、却って、主が全てを益としてくださることを信じてまいりましょう。
②生まれる…キリストは、救い主として、つまり、多くの人々を罪と死と滅びから救い出すために、人となってこの世に生まれてくださいました。伝道者の書7:1には「死の日は生まれる日にまさる。」とありますが、「死」が完成であるなら、「生まれる」は始まりです。今、つばめさわ教会は建設中であり、教会堂が生まれようとしています。何のための建物でしょうか。キリストのからだなる教会を建て上げる(エペソ4:12)ためであり、すべての人をキリストにある成人として立たせる(コロサイ1:28)ためです。「生まれる」、それは、これから始まるのです。
③平和…羊飼いたちの前に現われた天の軍勢は「~地の上に平和が、みこころにかなう人々にあるように。」と神を賛美しました。私たちは、それぞれ能力も性格も賜物も違います。共通しているのは、やはり、それぞれ重荷を持っていることでしょう。でも、インマヌエルなる主が共におられるなら平安があります。最近、私は引っ越しのため書類を整理していました。すると、一枚のA4紙を見つけました。出自は不明ですが、そこに、「わたしは、あなたの心の奥深くにある神への献身を喜んでいる。そして、あなたには平安の人生を用意している。一歩一歩、わたしに従いなさい。信頼しなさい。わたしが事をなすのだから。」と手書きで書いてありました。

●6月21日礼拝メッセージ要旨(ルカ1:57~80)

バプテスマのヨハネが誕生した頃の記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①彼の名はヨハネ…バプテスマのヨハネの使命は、76節にあるように、「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に罪の赦しによる救いの知識を与える」ためでした。それは、神の深いあわれみに基づくものだったのです。「ヨハネ」、その意味は「主はいつくしみ深い」です。第二歴代誌30:9bには「あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」とあります。私たち人間の側が主に心を向ける限り、あわれみ深い主は、恵みを注いでくださいます。
②我らの敵からの救い…敵とは誰でしょう。聖書が語る真の敵は、人でも、国でも、世にある組織でもありません。エペソ6:12を見ますと「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあり、この世の支配者でもある悪霊です。この世の多くの人々の一般的な見解では、まず、創造主である神の存在を認めてはいません。まして、悪霊の存在などは眼中にはないでしょう。本当の深いところでの敵の存在を知らないため、その敵に振り回され、ほんろうされているのが現状ではないでしょうか。ときに、聖書を信じているはずのクリスチャンでさえも、その敵の存在を忘れ、悪魔の喜ぶようなことをしてしまいます。「敵は本能寺にあり」ということわざがありますが、人間の本当の敵を教えているのは聖書であり、エペソ6:12です。
③その霊は強くなり…この終末の時代を生きるために、私たちは安閑としてはいられません。悪魔が自分の時の短いのを知り、様々な形で働いているからです。エペソ3:16には「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」とあります。私たち一人一人の内なる人が強くされなければなりません。そのためには、教会に集まる、賛美する、聖書を読む、祈る、そして、証しをすることです。私たちの使命は「暗黒と死の陰にすわる人たち(79節)」に福音を届けることです。そのためにも聖霊充満されねばなりません。

●6月7日礼拝メッセージ(ルカ1:26~56)

ルカ1:26~56から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①神にとって不可能は一つもない…乙女マリヤに御使いガブリエルが現われ、聖霊によって男の子が生まれること、また、その子は神の子であることを告げます。まだ、結婚していない処女が聖霊によって子を産むこと、普通では決してありえないことです。しかし、よく考えてみますと、普通に男女が結婚して子が生まれるということ自体も単なることではなく、不思議で奇跡的なことではないでしょうか。乙女マリヤの奇跡は、奇跡のための奇跡ではありません。多くの人の救いのため、真理のための奇跡です。第二コリント13:8には「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」とあります。真理のため、神の栄光のために行動する時、そこに奇跡を見ることがよくあるものです。
②おことばどおりになりますように…御使いガブリエルのことばに、最初はとまどっていたマリヤでしたが、その意図を理解すると、心を定めて、御使いのことばを気持ちよく受け入れます。ザカリヤの場合は、しるしを求めたゆえに話すことができなくなりましたが、そのこととは対照的です。聖書の中には、マリヤのように、自分の進むべき道を思い切って決断し、神に従った女性たちがいます。イサクの妻となるため、即決で親元を離れたリベカ、イスラエルの斥候と契約を結んだエリコのラハブ、彼女たちは、神を恐れ、神のことばに従順に従うことを決断したのです。
③主のことばは必ず実現すると信じた人はなんと幸いでしょう…マリヤのあいさつのことばを聞いたエリサベツは、聖霊に満たされて、このことばを語りました。主のことばは必ず実現します。今日、世界情勢をみるとき世界平和実現は益々困難になっています。また、自然界においては、地震、火山、異常気象など、落ち着く暇はありません。マタイ24:7でイエス様がこの世の終末に関して「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」と言われたことばどおりになっています。「儲」という字は信+者です。みことばを信じる者が結局、儲けることができるのです。どのくらい儲かりますか?罪の赦し、永遠のいのち、生きる目的が与えられ、空しい人生から解放されて、充実した最も幸いな人生を過ごすことができるのです。たとい立派な墓を作っても、そこでどうやって暮らしますか?この地上で最も幸いな体験よりもはるかに優る永遠の天の御国をめざす生涯を進んでまいりましょう。

●5月31日礼拝メッセージ(ルカ1:1~25)  

 「ザカリヤとエリサベツ」という題で、1~25節からポイントを3つあげて学んでまいりましょう。
   ①神の前に正しく…ザカリヤとエリサベツは、二人とも祭司の家系で、年を取っていました。二人とも、神の前に正しく歩んでいました。そういった彼らに、女から生まれた者の中で最も偉大な人物と言われたバプテスマのヨハネが生まれます。しかも、妻エリサベツは不妊の女でした。創世記に登場するエノクは、65才でメトシェラが生まれ、そののち300年間、神と共に歩みました。それゆえエノクは、神に取られていなくなりました。つまり、死を見ることなく天に上げられたのです。ノアの大洪水で有名なノアは、神から箱船建造を命じられたとき、彼は正しい人、全き人、神と共に歩んだ人でした。私たちの生涯においても、神の素晴らしい栄光を見たいと願うならば、エノクやノアのようにきよく、正しく、神と共に歩むことが求められます。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。(ヘブル12:14)」 
   ②主に立ち返らせる…当時のユダヤの宗教的、霊的状態はどのようだったでしょう。BC63年からローマの支配下に陥り、それから60年ほどが過ぎ、律法学者やパリサイ人らが幅をきかせ、宗教的形骸化で、霊的に沈滞していて、人々の心を主に向けさせる必要がありました。その目的のためにバプテスマのヨハネが選ばれ、その父と母であるザカリヤとエリサベツに男の子が与えられたのです。ヨハネは、その働きをするために、ぶどう酒も強い酒も飲まず、母の胎内にいるときから聖霊に満たされていました。私たち一人一人は、実を結ぶために選ばれ召されています。人々の心を天の神様に向けさせるためにです。パウロはコロサイ1:28で「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」と言っています。
   ③ザカリヤの疑い…聖書の中で、主がその人に現われて何かを言われたとき、それに対して、素直に「はい」と答える人と疑ってしるしを求める人の二種類の人があると言えます。士師記に登場するギデオンもしるしを求めましたが、お咎めを受けることはありませんでした。しかし、ザカリヤの場合は、しるしを求めたゆえに口がきけなくなってしまいました。この世で生活している私たちは、何でも疑わずにいるわけにはいきません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守り(第一テサロニケ5:21)、聖書のみことばには素直に「アーメン」と言って従ってまいりましょう。

●5月24日礼拝メッセージ(マルコ16:1~20)

 マルコの福音書最後の章、キリスト復活と宣教命令の記事からポイントを3つあげて学びましょう。      ①復活…キリスト教(聖書)の中心は十字架です。でも、復活があってこそ、十字架が意味を持ってきます。マグダラのマリヤたち3人の婦人たちは、イエス様のお体に油を塗りに行こうとして墓に行きました。それは、埋葬を、より完全なものにしようとしたのでしょうが、イエス様の体は見当たらず、青年(御使い)がそこにいて、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」と言います。彼女たちは、非常に恐れて、墓から逃げました。その後、イエス様は、マグダラのマリヤにお姿を現し、エマオの途上でも二人の弟子たちに現われました。そうやって、先にイエス様の姿を見た彼らが他の弟子たちに主の復活を話すと、聞いた人たちは誰も信じようとはしませんでした。その後、11人の弟子がそろった食卓に姿を現されたイエス様は、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになりました。イエス・キリストの復活は、蘇生ではありません。死に支配されない永遠の体に復活しました。そのイエス様を、復活の初穂として信じる者も復活の体に与るのです。
   ②福音を宣べ伝えなさい。…15節には「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」とあります。これはイエス様の至上命令とも言われています。第一コリント15:3~4によると、福音の最も大切なこととは、キリストが、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に復活したことである、と言っています。キリストの十字架と復活は福音の中心ですが、聖書全体が福音でもあります。でも、聖書のみことばは、人を通し、その人の生きざまを通して伝わっていくものです。福音の証し人となれますように。
   ③みことばに伴うしるし(聖霊の働き)…福音を伝えるために、不可欠なのは聖霊の働きです。旧約聖書には、守るべき年三回の祭が記してあります。過ぎ越しの祭、七週の祭、仮庵の祭です。さて、それらの祭と重なるようにして、新約聖書では、イエス様の十字架と復活のイースター、ペンテコステ、クリスマスがお祝いされます。イースターとクリスマスだけではなく、やはり、ペンテコステの聖霊の働きを無視することはできません。聖霊の働きの中で最も大切なことは、罪の悔い改めと救いです。ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世に誤りを認めさせます。」とあり、第一コリント12:3には「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあります。聖霊の働きを期待するためには、やはり、祈りが大切です。