ヘブル人への手紙11:1~16からです。ヘブル書11章というと「信仰」、「信仰」と言えばヘブル書11章というイメージがあります。その11章の前半、1~16節から「信仰によって」という題でポイントを3つ上げていきましょう。
1.聖書の創造主を信じる信仰…まず、「信仰」という言葉をしっかりと定義しなければなりません。日本は偶像大国です。また、汎神論的世界観が蔓延しています。「鰯の頭も信心から」ということわざがあり、なんにでも頭を下げるということが良いことであるかのような風潮があります。ヘブル11:1で「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と語られている中での「信仰」はギリシャ語原語ではπιστις(ピスティス)で、英語はfaith(フェイス)で、どちらも「信じる、信頼する」という意味を持ちます。前述のイワシの頭を信頼する人があるでしょうか。イワシでなくても、石や木で作った偶像、死んだ偉人などを祀った偶像の神々が信頼できるでしょうか。天地を創造し、人間を形造り生かしておられる真の神、そして、そのひとり子イエス・キリストを救い主として世に送ってくださった方以外に、信頼できる方が他にいるでしょうか。私たちは、この方を信じる信仰によって、この世界が目に見えない真の神によって創造されたことを悟るのです。
2.信仰がなくては神に喜ばれない…先週、スポパーク松森という競技場でフットサルを楽しみました。筆者も、声が掛かったら、プレーに参加するつもりでスポーツウェアを着て観戦していました。しばらくすると、声が掛かり、出場となりました。もう高齢者の域に達していますから、無理なことは出来ません。しかし、せっかく出場するのですから、ゴールを一本決めたいと思っていました。すると、いい塩梅のパスが来ました。少しドリブルしてゴールポストを目ざして蹴り込んだら、なんとゴールを決めることが出来ました。ただの自慢話とも言えますが、ゴールを決めることが出来たのは、ゴールしようという思いと、その思いに基づいた行動です。聖書に戻ります。ここでは、アベル、エノク、ノア、アブラハムらが出てきます。アベルは信仰により、カインよりもすぐれたいけにえを主にささげました。エノクは、65才でメトシェラ(「彼が死ぬときそれが始まった」の意)を生み、300年間、神と共に歩んだので、死を見ることなく天に上げられました。確かに、その後、結果的にメトシェラが死んだ年にノアの大洪水が起こったのです。ノアは、神が言われた通りに巨大な箱船(300キュビト×50キュビト×30キュビト)を建造し、彼の家族と共に大洪水から命を救うことができました。アブラハムは当初、カルデヤのウルにいましたが、父テラと共にハランに移り住み、そこで75才のときに、神の声を聞いてカナンの地に向かいました。彼らは、信仰によって真の神に従うことによって、神に喜ばれていたのです。私たちも、天地を創造した真の神がおられるということ、そして、その方が語られている聖書のことばは真実であり、そのみことばに従って生きるということは、神に喜ばれ、大いなる祝福を受けることになるということを信じましょう。
3.天の都を待ち望んでいた…10節には「彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。「堅い基礎」とは、何を意味しているのでしょうか。日本は地震大国であると言われております。地面を深く掘っていきますと、その下にはマグマがあります。場所によって異なりますが、ある場所では数十メートル、一番深い場所では百キロメートルでマグマに到達するとのことです。仮に地球を覆っている地面の厚さが一律で百キロメートルとしましょう。地球の直径が12741kmですから、分かりやすくするために、直径127センチの大きなボールを地球に見立てますと、そのボールの表面の地面の厚さは1センチとなります。実に地球を覆っている地面の層は薄いものであり、決して盤石なものではありません。事実、黙示録16:18には「すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」とあります。ですから、私たちは、この世のものに対して必要以上に執着すべきではありません。むしろ、天の故郷が本籍地であり、そこから、この地上に遣わされていると捉えるのが賢い人と言えるでしょう。