ヨハネ第一の手紙1:1~10から「光の中を歩む」という題でポイント3つ上げていきます。
1.いのちのことば…この手紙の著者ヨハネは、キリスト12弟子の一人です。しかも、その中でキリストに最も近い弟子の一人と言えます。あのマタイ17章で高い山にキリストが登られたとき、ヨハネはペテロとヤコブとともに同行し、キリストの変貌のお姿を見ています。1節でヨハネは、キリストについて「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と表現していますが、3年以上、主と生活を共にしたのですから、驚くべき体験です。ヨハネがそのことを証しし、いのちのことばであるキリストの永遠のいのちを伝えようとしているのです。そして、3節で、自分が見たこと聞いたことを伝えるのは、それを聞いた人々が御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つためだ、と言っています。つまり神と交わるということです。そのことについて、キリストご自身のことばであるヨハネ17:21には「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。私たちがキリストを信じて神と交わるとき、聖霊がその人の内におられ、喜びが全きものとなるのです。
2.「光の中を歩む」…神は光であって暗いところが少しもありません。私たちがやがて天の御国に入らせていただくならば、そこには太陽はありません。主なる神ご自身が光であって、太陽が不要だからです。黙示録22:5に「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」とある通りです。しかし、この地上においては太陽の下で暮らさねばなりません。5~7節の光と闇とは、霊的な光と闇のことを言っています。ガラテヤ5:19~23によると、霊的な闇とは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興など」です。一方、霊的な光とは御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。今の時代は混沌としていて闇の力がこの世界を覆い尽くそうとしているように見えます。しかし、皆さん。イザヤ60:1~3には「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。闇の力を恐れることはありません。霊の目を覚まし、主なる神を信じて立ち上がりましょう。ローマ12:21には「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。イエス・キリストを信じ、神の光を輝かせましょう。
3.自分の罪を言い表すならば…第一のポイントで、「神と交わるならば喜びが全きものとなる」と話しました。神と交わるということは「神と和解すること」です。もうすでに、天の父なる神様は、御子イエス・キリストを世に遣わし十字架の救いを完成しておられます。つまり、和解の握手をするとすれば、神様の側では握手の手を差し出しておられるのです。私たちがそれに応答し、手を差し出して神様と握手して和解するのです。すなわち、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、悔い改め、自分の罪を言い表すのです。詩篇51:17には「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。天の神様は、私たちが悔い改めることを喜び、そのことを高く評価してくださるのではないでしょうか。そしてヘブル10:17に「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」とあるように、悔い改めた人の罪を咎めることはありません。しかし、心の中に、何か迷いや悩みがあるなら、それは告発者である敵対する勢力(黙示録12:10~11)の影響かもしれません。そのようなときは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます(7節)。」というみことばの約束に立ち続けることです。