ヨハネ第一の手紙4:1~10から「力ある方が内におられる」という題でポイント3つ上げていきます。
1.イエス・キリストを告白する霊…1節で「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」と言っています。そして2節で「人となってきたイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです。」とあります。名前を呼ぶ、例えば、一昔前だと「田中角栄」という総理大臣がいました。この方はコンピューター付きブルドーザーと言われました。晩年にロッキード事件で賄賂を受けて残念な部分がありましたが、最近の大臣方の国会答弁と異なり、自分の言葉で国民のために政治を前に進める、政治家らしい政治家だったと思います。そのように、この方の名前を上げるとき、その人の人格や何をした人なのかとイメージを膨らませるものです。ピリピ2:6~9には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。十字架で救いを成し遂げられたイエス・キリストのお名前は正に「すべての名にまさる名」です。この御名を告白する霊は神からのものであり、告白しない霊は神から出てはいません。
2.あの者よりも力がある…あの者とは悪魔とか悪霊と呼ばれる者です。人間と悪魔と全能の神、この三者の力の序列として、人間よりも悪魔の力が上であり、その悪魔よりも真の神が圧倒的に力は上です。私たち人間だけの力で悪魔に勝つことは無理です。しかし、イエス・キリストが共におられるならば、私たちは悪魔よりも強いのです。筆者はアイパッド(iPad)を所有しているのですが、出始めの種類で古いタイプのものです。1年以上前、アカウントの更新をするようにその端末機器から指示が出ていたのですが、さっぱり更新が出来ずに、長いこと使っていませんでした。最近、ふと思い立って、アカウント更新して使えるようにしようと挑戦しましたが、やはり出来ませんでした。そこで、若い人に頼めば出来るのではないかと考えていたところ、次女が孫たちを連れて遊びに来ました。そこで彼女にアイパッドのアカウント更新を頼んだら、自分のスマホで調べたりして、20分ほどしてアイパッドが使えるようになりました。流石だと感心しました。これは、生活のちょっとした一コマなのですが、たましいの分野、罪の赦し、永遠のいのち、勝利の生活に関しては、全面的にイエス様に頼り、イエス様にお願いすることが賢明です。第一ヨハネ5:5には「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とあり、また、ヨハネ16:33後半には「~あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とあります。
3.ここに愛があるのです…10節には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。先日、筆者は教会のメンバーの方と二人で、教会の敷地内にある雑木系の細木を伐採しました。夏になって山が鬱蒼と茂るのを抑えるためです。作業の途中は伐採した雑木やツタのツルが駐車場などに散乱していました。もちろん、日曜日の礼拝の時間には、綺麗に片づけて何事も無かったようにしています。それと同じように、キリストの十字架は、聖書のみことばを通して知ることはできますが、まるで何事も無かったかのようにも受け止められがちです。しかし、2000年ほど前、なだめの供え物となった神の御子イエス・キリストのゴルゴダの丘での惨状は凄まじい筆舌に尽くしがたいものであったことでしょう。正に、そこに愛があるのです。パウロはガラテヤ書6:14で「十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」と言っています。このイエス様の十字架の愛によって、私たちの世界観が全く変わったのではないでしょうか。私たちは、この十字架の愛を人生の土台として歩んでまいりましょう。