ヨハネ第一の手紙3:1~12から「私たちは神の子どもです」という題でポイント3つ上げていきます。
1.私たちは神の子どもです…天の父なる神様が、素晴らしい愛を与えてくださったので、この神の愛を受け入れた人々は神の子どもとされています。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。また、マルコ16:16には「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」ともあり、救い主イエス・キリストを信じ、そのことを公にするバプテスマによって、神の子どもとなるのです。山形県尾花沢市で伝道しているエドワーズ夫妻が山形新聞に掲載されている写真の中に写り込んでいました。大相撲初場所で琴の若が大活躍したので、市民を集め、千秋楽の様子を尾花沢市の某会場で大画面テレビ観戦応援をしたのです。ここ二、三年前、筆者は、エドワーズ夫妻に「尾花沢は琴の若の父親である先代・琴の若の郷里だから…」と再三に言っていましたが、そのことを覚えていたのでしょうか。夫妻は尾花沢市で伝道しているのですから、そういった行動が伝道の良いきっかけとなるでしょう。聞いたことを行動に反映させる。聖書のみことばなら、なおさらそうです。さて、神の子どもには特権があります。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあります。また、やがてキリストの来臨のときには、キリストのありのままの姿を見るという、正に素晴らしい特権が与えられているのです。
2.神の子どもと悪魔の子ども…聖なる真の神様の支配下で過ごすということは、第一に心の平安、そして喜びがあり、何のために生きるのかという充実感もあります。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。逆に、悪魔の支配下にあるなら、まるで羅針盤の無い(最新の船舶のことは知りませんが)船で大海の中を右往左往するようなものです。もう一点、6節と9節には「神の子ども、すなわちキリストのうちにとどまる者、神から生まれた者は罪を犯さない」ということが記されています。「え?」と思う人がいるでしょう。というのは同手紙の1:10には「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」とあり、矛盾とも受け取れるからです。しかし、同手紙の5:16には「死に至らない罪」と「死に至る罪」ということが指摘されています。そうかと言って、どこからどこまでが、その境界線となるのかというと非常に微妙な問題になってきます。一つのヒント(目安)として言えることは、マルコ3:29でキリストが「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」と言っておられます。
3.義を行なう…第一ペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。神の子どもは、聖なる神に選ばれた神の民であり、王である祭司として神と人との間に立って執り成しをする役目を担っています。確かに、神の子どもと言っても、この見える世界においては無力なただの人にしか見えないでしょう。しかし、全知全能の真の神の視点、つまり、霊的な世界から見れば、キリスト者は王である祭司ですから非常に高い身分にあるということです。ですから、私たちはそういった自覚を持つべきです。もちろん、そうかと言って、この世にあるかぎり、謙遜に神と人とに仕え、福音の証し人となりましょう。