●8月25日の礼拝メッセージ要旨(マタイ22:15~33)

 カイザルに税金を納めることについての質問、そして、復活についての質問に、それぞれイエス様が答えられた記事からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①カイザルのものはカイザルに…パリサイ人とヘロデ党の者たちが一緒になって、イエス様を訴える口実を見つけようとローマへの納税について質問します。しかし、イエス様は「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と答え、彼らは驚きます。これはこれ、それはそれ、ということなのでしょう。伝道者7:18に「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。」というみことばがあります。実際的な信仰生活の中で、意外に大切な教えで、どんなことでも極端になってはいけないということです。あることに関して緩すぎてもいけない。堅すぎてもいけない。また、人間関係においては、適度な距離感というものがあります。そういった適度なバランンス感覚を身に付けることも必要です。
   ②聖書も神の力も知らない。…サドカイ派は、復活を信じない人たちで、彼らは復活の矛盾を突いたつもりでいましたが、イエス様に「聖書も神の力も知らない。」と一蹴されます。韓国ハンドン大学のイ・ジェマン教授は地質学の専門家です。彼は、単純な生物の化石が一番下の地層にあって、上にいくほど徐々に高等な生物の化石が出現するというような地層は世界中のどこにもない、と断言しています。イ教授は、アメリカのグランドキャニオンへのツアーに同行して、進化論が何の根拠もない作り話であって、聖書の記述通り、ノアの大洪水の証拠がそこで確認できると言っています。聖書を否定し、神の力も認めない者ではなく、創造主の存在を認め、イエス様を信じる信仰によって、永遠への希望を持って生きる者となりましょう。
   ③神は生きている者の神です。…モーセは、ミデヤンの地で生活していたとき、ホレブの山で全能の主と出会いました。主は「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。アブラハムもイサクもヤコブも全能の主を信じ、信仰に生きた人たちでした。創造主を信じる。信仰に生きるとは、聖なる神の前に砕かれ、跪く、自分を義とするのではなく、自らを罪人であると認め、神の助けを請うことです。すなわち、イエス様の救いを受け入れ、生きた者として、神の目的に生きるのです。

●8月18日の礼拝メッセージ要旨(マタイ22:1~14)

 天の御国は、王子ための結婚披露宴を催した王のようである、というイエス様のたとえ話から、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①天の大祝宴…一般的に言っても、結婚の披露宴は相当な食事が振る舞われます。それが王家の結婚式であるなら、かなり豪華なものとなるでしょう。ヘブル12:22には、キリスト者はやがて天の大祝会に与る約束があります。また、ヘブル4:1には、天の御国は「神の安息」と表現しています。七日に一度、私たちは日曜日を聖日とし、安息日として位置づけています。その安息日の過ごし方が、やがて迎えられるであろう天の大祝会への備えとなるでしょう。
   ②招待と無関心…5~6節で、招待客たちは、せっかくの王の招待を無視し、畑仕事や商売を優先し、王のしもべたちを殺しています。実際的には、この世で権力者である王の招待を無視する人はいないでしょう。ここでは、目に見えない天の創造主の招待なので、無視したりということは大いにありえます。今は恵みの時、今は救いの日です(第二コリント6:2)。全ての人を創造した創造主の恵みによる救いの招きがある今この時に、その招きに応じることこそ、どうしてもしなければならない事です。また、すでに招きに応じた者は、今度は招く側に立って、天の大祝会への招待を人々に案内しましょう。
  ③礼服…この世の結婚式にも礼服や一張羅の服を着ることは礼節でもあります。この記事で言う礼服とは何でしょう。霊的、信仰的に色々な解釈ができると思いますが、天の大祝会に出席するのにふさわしい者となるということでしょう。イエス様を信じてバプテスマを受け、成長して主の弟子となる(マタイ28:19~20)ことと言えると思います。黙示録2~3章には「勝利を得る者は~」と何回か出てきます。霊的な勝利者とは、勝利者であるイエス様が共におられる人です。そのために必要なことは、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する(第一テサロニケ5:16~18)ことです。それによって御霊は消される(第一テサロニケ5:19)ことはないでしょう。

●8月7日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇131篇)

※8月11日の礼拝説教者がゲストスピーカーでしたので、8月7日祈祷会のメッセージです。


 1節では、「誇らず」「高ぶらず」とありますが、一言葉で言えば「謙遜」ということでしょう。旧約聖書一日一章という書で榎本保郎師は「謙遜とは、ただ単におごらない、高ぶらないということではない。私たちが何かをなそうとするとき、自分の力だけでそれをしようとすると、その力が充分にあると思えるときには、おごりや、高ぶりを覚え、その力の不足を感じるときには、不安になり、あるいは恐れをいだき失望してしまう。それは私たちと共にいてくださる神の力を認めようとしないからで、神の力を認めてはじめて私たちは本当に謙遜な者とされるのである。そして何か事をなそうとするとき、それができるできないは問題でなくなり、それが神のみ旨であるかどうかが第一に考えられるようになるのである。」と言っています。
 また、2節では、「乳離れした子」とありますが、ここでも榎本師は、「乳飲み子」と比較しての乳離れした子を考えるようにと言っています。一面、独り立ちした、けれども、母親のそばからは離れない。つまり、天の父と私たちとの信仰的な関係として見るとき、霊的に独り立ちするほど成長しているけれども決して主の側を離れることはない、そういう意味での理想的な謙遜を「乳離れした子」という言葉で表現しています。
 3節では「主を待て」とありますが、忍耐して主の時を待つという姿勢もまた、真の謙遜な姿です。
このひとつ前の詩篇130:7では「イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」とありますが、主を待ち望む者には、恵みが待っているのです。もう一度まとめてみますと、第一に「主の力を認め、主のみ旨に委ねる謙遜」、第二に「霊的に成長しつつも主のもとを離れない謙遜」、第三に「主のときを待ち望む謙遜」

●8月4日の礼拝メッセージ要旨(マタイ21:23~46)

  23節から46節まで、少々長いのですが、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①権威…イエス様が宮で教えておられると、祭司長たちが来て「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。」と問いかけます。本来、宮(神殿)は天の創造主を礼拝する場所であり、そこへ創造主のひとり子イエス様が来て教えておられるのですから、イエス様以上に教えるにふさわしい方はいません。しかし、祭司長たちは、イエス様の権威を認めようとしません。イエス様は「わたしには天においても地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)」と言われました。今日、私たちは、イエス様が天と地の最高権威者であることを覚えるべきです。また、イエス様は教会のかしらとして教会に与えられていますので、教会(聖書的で健全な教会でなければならないが)の権威も認めるべきです。それとともに、この世にある権威も、主によって立てられているのですから、税金を納めたり法律を守ったりということも正しいことです。家庭においては父親の権威を認めることも、子供にとっては健全な人間関係の基礎となるでしょう。
   ②兄と弟…ぶどう園で働いてくれ、という父の求めに対して、兄は「行く」と言って行かず、弟は「行きたくない」と言ったのですが、悪かったと思って、行きました。ここでは、兄は祭司長たちのこと、弟は取税人や遊女のことを指しています。取税人や遊女たちは、バプテスマのヨハネのメッセージを聞いて悔い改めたのでした。今日、私たちもイエス様の福音を聞いて、福音に従わなければなりません。みことばを聞くだけに終わらず、聞いたみことばを行なってこそ役に立つのです。
   ③礎の石…「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」というみことばは、イエス様の十字架のことを言っています。一時的にイエス様は、見捨てられたと思われましたが、却って、それによって、救いの福音が全世界に宣べ伝えられるようになりました。このことは、私たち個人の信仰にも通じるところがあります。パウロは「私は、キリストの力が現われるために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12:9)」と言っています。私たちそれぞれ、弱さを持っているものです。しかし、案外、その弱さを通して救いに導かれたり、主の栄光が現われたりするものなのです。

●7月28日の礼拝メッセージ要旨(マタイ21:12~22)

 イエス様が宮きよめをされた記事、いちじくの木を枯らしてしまう記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①宮きよめ…ゼカリヤ9:9では「柔和」であると預言されていたはずのイエス様が、ここでは一転して、宮の中で両替人や鳩を売る者たちの商売道具などを倒すなど荒々しい姿勢を示されます。本来は、礼拝の場所である神殿が、強盗の巣と化してしまっている現状に対して、イエス様は見過ごすことはしませんでした。しかも、ここで、誰の手も借りることなく、たったお一人で、悪に立ち向かわれました。「あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(詩篇45:7)」とあります。私たちも、義を愛し、悪を憎む。たった一人でも悪に対して立ち向かう者でありたいと思います。
  ②わたしの家は祈りの家と呼ばれる…当時の神殿もそうであるように、今日の教会も「祈りの家」と呼ばれるべきです。先日、当教会で行われたオペレーションセイフ(キッズクラブ)で中心的に復唱されていたみことばは「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾であり、とりでである。(詩篇92:4)」でした。イエス様を信じる者に対して、主がその人を守って下さる。最終的には、永遠の住まいへと導かれる。それは、イエス様の十字架の救いのゆえです。その救いに与るためには主の御名(イエス様)を呼び求める(ローマ10:13)ことです。教会で、もちろん個人ででも、主を呼び求め、ますます祈る者となりましょう。
  ③いちじくの木…イエス様は、実を成らせていないイチジクの木を枯らされました。それは、うわべだけで中身のない当時のユダヤ教の指導者たちの結末をイチジクの木によって実物教育をしたのでしょう。バプテスマのヨハネもマタイ3:10で「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」と言っています。良い実を結ぶとは、主の栄光を現わすことです。主のみこころに従うことです。

●7月21日の礼拝メッセージ要旨(マタイ21:1~11)

  イエス様がロバの子に乗ってエルサレム入城した出来事の記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
   ①主がお入り用なのです。…創造主である真の神のひとり子あるイエス様は、そこにロバがいて、ロバの持ち主が「主がお入り用なのです。」と言えば、ロバを引き渡してくれるということをご存じでした。主は私たちを探り、その思いを遠くから読み取られます(詩篇139:1~2)。本来、私たちは、この地上に生かされている限り、主のお入り用に召されているのです。クリスチャン新聞顧問のM氏は7月18日の講演の中で、中国の伝道者の言葉として、伝道とは「私たちが主のために奉仕することではなく、主が私たちを通して働くことです。」と紹介されました。私たちもロバの子とその持ち主のように、主の使いやすい道具として用いられますように。
   ②ロバの子に乗ったイエス様…エルサレム入城のために、イエス様はなぜロバ、それもロバの子に乗ったのでしょう。一つは、旧約聖書の預言の成就(ゼカリヤ9:9)、すなわち、イエス様は旧約聖書で預言されていた救い主であるという確証のためです。もう一つは、十字架による救いの暗示ではないでしょうか。軍馬ではなく、荷物を運ぶロバの子に乗ることにより、武力や軍事力によるのではなく、自らの謙遜と十字架の血の贖い、赦しと愛による救いの道をイエス様は開かれました。
   ③ホサナ…ロバの子に乗ってエルサレム入城をするイエス様に対し、群集は「ホサナ(どうぞ救ってください、の意)」と叫びました。もちろん、この時の叫びは、ローマからの解放を求めた一時的なものでしょう。しかし、「ホサナ」とイエス様に叫ぶことは間違ってはいません。案外、私たちは、持っていないものに対して不満を言ったり悩んだりするものですが、むしろ、与えられているものを感謝しましょう。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。(第一テモテ6:7~8)」とあります。いつも、イエス様の恵みを覚えて「ホサナ」「ハレルヤ」と感謝と賛美をささげ、祈り求める者となりましょう。

●7月14日の礼拝メッセージ要旨(マタイ20:17~34)

 三つの内容の記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
 ①十字架と復活…イエス様は、時々、ご自分が十字架にかかって殺され、その後、復活しなければならないということを言われます。マタイ16:21でもほぼ同じことを言われました。なぜ、十字架と復活のことを時々言われたのでしょう。それは、一番大事なことだからなのです。人々を教えたり、病や患いを直していたイエス様は、むしろ、このことのために、この世に来られたのです。人間は、めとったり嫁いだり、様々な営みを日々続けています。しかし、やがては、この世を去るときが来ます。この世を去ってどこに行くのでしょう。イエス様は、私たちが、真の希望である永遠の天の御国に入るための道備えを十字架で完成されました。その最も大事なことをないがしろにしないようにと、弟子たちに、この時、というときに語られたのでしょう。
 ②仕える者になりなさい。…人間、偉くなったとか、地位が上がったとか、とかく、そういったことに力点を置くものです。しかし、イエス様は、「あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」と言われます。イエス様ほど偉い方はいないでしょう。その方ご自身が、人々に仕え、ご自分のいのちを贖いの代価として与えられたのです。
 ③二人の盲人…二人の盲人がイエス様に叫び求め、目が見えるようにしていただきました。この記事は、今日の私たちの祈りに適用できるでしょう。チャールズ・H・スポルジョンは「祈りたい気持ちのときには祈るべきである。というのは、そのような良い機会を無視するのは罪深いことであるから。また、祈りたくない気持ちのときも祈るべきである。というのは、不健全な状態にとどまるのは危険なことであるから。」と言っています。人間、生きている限り、ときに様々な問題があるものです。しかし、イエス様に祈り求めることができるということは幸いです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33:3)」

●7月7日の礼拝メッセージ要旨(マタイ20:1~16)

 イエス様が、天の御国は、労務者たちを雇ったぶどう園の主人のようなものであるとして説明しています。ぶどう園の主人が早朝、朝9時、12時、午後3時、5時、それぞれに人を雇い、午後6時に皆同じ1デナリづつ、しかも、午後5時から雇った人から給金を支払います。これは、この世の道理から見れば不公平と言えますが、ここでは天の御国についての説明です。例えば、人生の晩年においてイエス様に出会い、救いを受けた人の場合は、午後5時に雇われた人のようです。永遠のいのちに与るということは、早いとか遅いに関係なく同じ恵みを受けるべきでしょう。
   永遠のいのち、天の御国というのは、13節にあるように、気前の良いぶどう園の主人のようなものです。そもそも教会は天の御国の地上の支店のようなものですから、教会は天の御国を証ししていかねばなりません。特に外に向かって福音を伝えていくとき、案外、それを補う環境が大きな影響を及ぼすものです。震災後、多くのクリスチャンボランティアの方が被災地に来られ、無償で家屋修繕とか泥だしとか、物資の配給、あるいはコンサートの無料提供などをしました。そういった活動を通して福音に触れ、イエス様に出会った人もいますし、震災前には考えられなかったほどに、クリスチャンと良い関係を持っている方が多くいます。当教会も震災前に比べて、教会として同地域の被災地の方々に少しは認知されるようになったと思います。教会とは、クリスチャン一人一人でもありますから、それぞれが遣わされたところで、天国を証ししていくことです。
   16節では、「あとの者が先になり、先の者があとになる。」とありますが、イエス様の救いに与った者が、最初のうちは、感謝感激で、喜びが湧きかえっているのですが、時が経過すると、次第に感動を忘れてしまう、そんなことにならないように、最初の恵みを忘れることなく、むしろ、この気前の良いぶどう園の主人のように神の国を証しする者でありたいと思います。

●6月30日の礼拝メッセージ要旨(マタイ19:16~30)

   イエス様のもとに、ひとりの財産家の青年が来て「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう。」と質問した記事などから三つポイントをあげて学びましょう。
   ①永遠のいのち…「永遠のいのちを得るには」と、こういう会話ができることは幸いなことです。なぜなら、創造主である永遠の神の存在と永遠のいのちということを信じている者同士でないとこういう会話は成り立たないからです。さて、この青年は「どんな良いことをしたらよいのでしょう。」と尋ねますと、イエス様は「良い方はひとりだけです。」と、暗示的なことを言われます。結局、永遠のいのちを得るためには、良い行ないによるのではなく、良い方であるイエス様による十字架の救い以外にはないからです。
   ②神にはどんなことでもできる。…「行ない」によって救われるのではないということを気付かせようとしたのでしょう。イエス様は、金持ちの青年に対して「持ち物を売って、貧しい人たちに与えなさい。」と言われると、青年は悲しんで去って行きました。そこでイエス様は、「金持ちが天の御国に入るのは難しい。」と言われます。それを聞いて弟子たちは「それでは誰が救われるでしょう。」と言います。救いは、人の力によってもたらされるものではなく、金持ちであろうが、難しい人であろうが、神の力と奇跡によって、どんな人でも救いに与ることができます。
   ③わたし(イエス様)の名のために…最近、サヨナラホームランを放った阪神のマートン選手は、ヒーローインタビューで「いつも一緒ね。イエス様に平安がある。がんばります!」と言ったそうですが、たぶん、正しい日本語として「いつもイエス様が一緒だから平安があります。がんばります!」と、言いたかったのでしょう。イエス様の名をインタビューで語るということは、ある意味、抵抗がありますが、マートン選手は、選手としての自分の保身のことよりも、イエス様の御名が崇められることを第一に求めているのでしょう。

 

●6月26日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇125篇)

  この詩篇のテーマは、天の神を信じ、信頼する人は、その天の神様によって取り囲まれ、守られているということです。エルサレムは高い所にありますが、外敵の侵入を防ぐために山や谷によって取り囲まれている地形となっています。3節には「悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。」とありますが、主のみこころは、正しい者が悪者に支配されることなく、また、自らも悪に手を染めることがないということです。
   第二列王記6:15~17を見ますと、アラムの軍隊がエリシャを捕えに来たとき、そのアラム軍よりも多い天の軍勢がエリシャのいる所を取り巻いていたのです。エリシャに仕える若者が恐れていたとき、エリシャは「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多い。」と言い、そのあと、若者の目が開かれるように主に願うと、そのようになります。詩篇32:10には「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む。」とあります。
   聖書のことばそのものではありませんが、(最近、筆者が)色々な読み物を読んでいて、「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなのです。」という言葉が心に留まりました。確かに、第一テサロニケ5:16~18には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とありますから、聖書的な言葉と言えます。どんなときも主を信じ、信頼する。すると、主もそれを喜ばれて、その人を守り、さらに恵みに恵みを増し加えられる。そんな信仰生活でありたいものです。