●2023年7月2日(日)礼拝メッセージ要旨

ヘブル人への手紙11:1~16からです。ヘブル書11章というと「信仰」、「信仰」と言えばヘブル書11章というイメージがあります。その11章の前半、1~16節から「信仰によって」という題でポイントを3つ上げていきましょう。

1.聖書の創造主を信じる信仰…まず、「信仰」という言葉をしっかりと定義しなければなりません。日本は偶像大国です。また、汎神論的世界観が蔓延しています。「鰯の頭も信心から」ということわざがあり、なんにでも頭を下げるということが良いことであるかのような風潮があります。ヘブル11:1で「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と語られている中での「信仰」はギリシャ語原語ではπιστις(ピスティス)で、英語はfaith(フェイス)で、どちらも「信じる、信頼する」という意味を持ちます。前述のイワシの頭を信頼する人があるでしょうか。イワシでなくても、石や木で作った偶像、死んだ偉人などを祀った偶像の神々が信頼できるでしょうか。天地を創造し、人間を形造り生かしておられる真の神、そして、そのひとり子イエス・キリストを救い主として世に送ってくださった方以外に、信頼できる方が他にいるでしょうか。私たちは、この方を信じる信仰によって、この世界が目に見えない真の神によって創造されたことを悟るのです。           

2.信仰がなくては神に喜ばれない…先週、スポパーク松森という競技場でフットサルを楽しみました。筆者も、声が掛かったら、プレーに参加するつもりでスポーツウェアを着て観戦していました。しばらくすると、声が掛かり、出場となりました。もう高齢者の域に達していますから、無理なことは出来ません。しかし、せっかく出場するのですから、ゴールを一本決めたいと思っていました。すると、いい塩梅のパスが来ました。少しドリブルしてゴールポストを目ざして蹴り込んだら、なんとゴールを決めることが出来ました。ただの自慢話とも言えますが、ゴールを決めることが出来たのは、ゴールしようという思いと、その思いに基づいた行動です。聖書に戻ります。ここでは、アベル、エノク、ノア、アブラハムらが出てきます。アベルは信仰により、カインよりもすぐれたいけにえを主にささげました。エノクは、65才でメトシェラ(「彼が死ぬときそれが始まった」の意)を生み、300年間、神と共に歩んだので、死を見ることなく天に上げられました。確かに、その後、結果的にメトシェラが死んだ年にノアの大洪水が起こったのです。ノアは、神が言われた通りに巨大な箱船(300キュビト×50キュビト×30キュビト)を建造し、彼の家族と共に大洪水から命を救うことができました。アブラハムは当初、カルデヤのウルにいましたが、父テラと共にハランに移り住み、そこで75才のときに、神の声を聞いてカナンの地に向かいました。彼らは、信仰によって真の神に従うことによって、神に喜ばれていたのです。私たちも、天地を創造した真の神がおられるということ、そして、その方が語られている聖書のことばは真実であり、そのみことばに従って生きるということは、神に喜ばれ、大いなる祝福を受けることになるということを信じましょう。

3.天の都を待ち望んでいた…10節には「彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。「堅い基礎」とは、何を意味しているのでしょうか。日本は地震大国であると言われております。地面を深く掘っていきますと、その下にはマグマがあります。場所によって異なりますが、ある場所では数十メートル、一番深い場所では百キロメートルでマグマに到達するとのことです。仮に地球を覆っている地面の厚さが一律で百キロメートルとしましょう。地球の直径が12741kmですから、分かりやすくするために、直径127センチの大きなボールを地球に見立てますと、そのボールの表面の地面の厚さは1センチとなります。実に地球を覆っている地面の層は薄いものであり、決して盤石なものではありません。事実、黙示録16:18には「すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」とあります。ですから、私たちは、この世のものに対して必要以上に執着すべきではありません。むしろ、天の故郷が本籍地であり、そこから、この地上に遣わされていると捉えるのが賢い人と言えるでしょう。

●2023年6月25日(日)礼拝メッセージ要旨 

 ヘブル8~10章では、「初めの契約と新しい契約」をテーマにして、ここしばらく礼拝で学んできました。今日は、その最後のまとめと言えます。ヘブル10:23~39から「一緒に集まりましょう」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.一緒に集まる … ここ2~3年は、新型コロナウィルスの影響で、一般の飲食店などが大きな影響を受けてきました。キリスト教会も例外ではなく、少なからぬ影響を受けてきました。それもそのはず、教会は「集まる」ということが大切にされてきたからです。先週のテキスト最後の22節には「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。「神に近づく」ためには何をすればよいでしょう。一番手っ取り早いのは教会に集まることです。なぜなら、マタイ18:20に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあるように、主イエス・キリストの名によって集まる所、すなわち教会には聖霊様がおられ、教会に集まることによって、真の神様に近づくことが出来るからです。当教会では、かつて月曜日から土曜日までの毎日午前5:30から早天祈祷会が行われていました。しかし、建物移転などに伴い、個人のデボーションを大切にしようという観点から、早天祈禱会を行なわなくなりました。しかし、毎日でなくても、持続可能な形で、無理なく集まる機会を設けることは良いのではないかと、現在検討中です。

 2.確信を投げ捨てない…クリスチャンの確信とは何でしょうか?それはイエス・キリストによる救いです。ヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあるように、ただ、イエス・キリストを信じることによって、救いを受けるのです。しかし、その後が大切です。悪魔も生きていて、救われた人を放っておきません。キリストがマタイ12:43~45で、たとえ話をもって警告しておられるように、心の中を空っぽにしておくと、そのすきをねらって悪の霊が侵入してくるのです。そうならないために、常に、聖霊で満たされることを求めていかねばなりません。救いの確信を投げ捨てないためには、私たちは、それなりに自分を整えていなければなりません。ダビデは詩篇16:8で「私はいつも、私の前にを置いた。が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と言っています。「自分の前に主を置く」とは面白い表現です。私たちの人生には色々なことがあります。良いこともあれば、そうでないこともあるでしょう。でも、どんなときも、キリストを通して物事を見ることです。そうすれば、私たちの信仰はゆるぎないものとなるでしょう。

 3.信じていのちを保つ者…インボイス制度が、この秋から適用されると言われています。一見、公平に見える制度ですが、これまで売り上げ一千万以下の小規模事業者に課されていなかった消費税分を搾り取るという仕組みです。レビ記19:10には「畑の収穫を刈り取るとき、貧しい人、在留異国人のために、その隅々まで刈り取ってはならない」という教えがあります。それは、神の愛から発していることです。その点、インボイス制度は「畑の隅々まで刈り取ってしまえ」という非情な制度と言えます。マタイ24:12には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」とありますが、確かに、今は終わりの時代で、日本においても、また世界中で、愛が冷えているような傾向が見受けられます。しかし、私たちは、世の中の風潮に流されることなく、キリストを信じて、キリストの愛によって行動しましょう。恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者となりましょう。

●2023年6月18日(日)礼拝メッセージ要旨

 ヘブル10:1~22から「大胆にまことの聖所に入る 」という題でポイント3つ上げていきます。 

 1.さあ、わたしは来ました …ヘブル書10:5~7は、詩篇40:6~8からの引用です。ヘブル10:7では「さあ、わたしは来ました」と言っておられます。詩篇40:7では「今、私はここに来ております」となっています。イエス・キリストが語るであろうとされることばです。キリストは正に十字架につけられるために来たのです。実に驚くべきことばです。ちょっと似ている表現ですが、イザヤ書6:8でイザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言いました。当時、イザヤは不従順な人々に神のメッセージを語っても聞く人はありませんでした。イエス・キリストの場合は、それ以前に、不従順な人々のために十字架につけられ、多くの人々の罪をその身に負われたのです。

2.彼らの罪と不法を思い出さない…ヘブル書10:16~17に書いてある事は、エレミヤ書31:33~34からの引用です。二つのことを言っています。一つは、新しい契約は人の心と思いに書きつけられるということ。もう一つは、神は、ご自身を信じる人々の罪や不法を忘れてくださるということです。私たち人間は、過去の楽しい思い出や素晴らしい経験などがあります。一方で、過去の罪とか失敗など、忘れてしまいたいという記憶もあります。日本では今、マイナンバーカードが引き起こしている不手際などで、国会で色々と議論されています。マイナンバーカードは紐づけと言って、何もかもデータを、その一枚のカードに組み入れようとしているようで、運用に不安を感じる人は多いのではないでしょうか。本当にそれが便利で有効なものであるという期待感が乏しいと言わざるを得ません。元々、人間の行なうことは不完全ですから、致し方ないとも言えます。その点、創造主であり、全知全能の神様がなさることは完全です。真の神様は、完全な記憶力の持ち主です。しかし、イエス・キリストを信じる者の罪と不法とを忘れてくださるのです。

3.大胆にまことの聖所に入る…この世界を創造した神は私たち人間を祝福しようとしています。しかし、多くの人々は、神を知ろうともせず、信じようとしません。そんな人々を神はお裁きになります。しかし、エペソ1:3には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。神はご自身を信じる人々を大いに祝福してくださいます。そして、神は、神を信じる人々の祈りを聞いてくださいます。私たちは、大胆に真の聖所に入って祈り、神の奇跡を経験しましょう。ダニエル書2章では、バビロンの王ネブカデネザルが、自分の見た夢を解き明かすように、呪法師たちに命じています。呪法師たちは「どんな夢を見たのかお話しください。」と言いますと、王は、「まず自分の見た夢が何であるかを言い当てよ。」と譲りません。出来なければバビロンの知者たちの命はありません。それを聞いたダニエルはネブカデネザル王の所に出向き、しばらくの時間を与えてくれるように願いました。ダニエルは彼の同僚であるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴにも伝え、祈りを要請しました。するとダニエルに夜の幻の内にこの秘密が啓示されたので、ダニエルは王の所にいって、その王の見た夢と、夢の解き明かしをしたのです。もちろん、バビロンの知者たちの命は守られ、ネブカデネザル王は、ダニエルが信じる真の神を崇め、ダニエルを高い位に就けました。また、ダニエルの願いにより三人の友も要職に就きました。

●2023年6月11日(日)礼拝メッセージ要旨  

●2023年6月11日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヘブル9:15~28からです。イエス・キリストが、十字架の血によって新しい契約を確立してくださった、という内容です。印象的な表現からピックアップして、ポイント3つ上げていきます。

1.永遠の資産の約束…6月6日は、筆者の受洗記念日です。47年前の、その頃以来、筆者はイエス・キリストを信じる信仰のゆえに、正に「永遠の資産の約束」を自分のものとし、主にある喜びと安心感、そして生きる目的を伴う充実した毎日を送るようになりました。そして、この2~3年は、新型コロナウィルスの騒動があり、それまでと違う価値観も登場しました。それまで教会では多く集まることが良いこととされていましたが、少ない人数で礼拝することが良いという、思いもよらない価値観も生まれました。ここに来て、世界的にもコロナがほぼ収束したかと思われます。そのような中、筆者自身はどことなく、モチベーション低下傾向にありました。先日、世界最大の教会を建て上げた有名な牧師さんのメッセージビデオを視聴しました。「具体的な目標を持つこと。夢を描き、情熱を持ち、信仰的な言葉を語りなさい。」というメッセージでした。振り返ってみれば、筆者は数的な目標を掲げたことが殆どありませんでした。しかし、それを改め、目標を紙に書いて、部屋に貼りました。すると、確かに、意欲が湧いてくるのを覚えました。永遠の資産の相続は既に約束されています。私たちは、この地上で何をするのか、何をもって主の栄光を現わすべきなのかということを期待されているのではないでしょうか。

2.血によってきよめられる…18節には「初めの契約も血なしに成立したのではありません。」とあります。これは、出エジプト記24章で、モーセが主のみことばを受け、祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえを主にささげ、その血の半分を鉢に入れ、半分を祭壇に注ぎました。そして、契約の書を取って、民に読んで聞かせました。すると民は「主の仰せられたことは、みな行ない、聞き従います。」と答えます。そしてモーセは、その血を取って、民に注ぎかけたのです。そのことが、本日のヘブル9:19~20に引用されています。そして、神のひとり子イエス・キリストが来られ、新しい契約が確立し、今、主にあるすべてのクリスチャンたちは、このイエス様を信じる信仰のゆえに、霊的に主の御血が注がれ、罪の赦しを受けているのです。このことが、クリスチャンの原点であり、ここから始まっていくのです。第一ヨハネ1:7です。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

3.一度目と二度目…27節には「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」とあります。「一度死ぬこと」は誰もが認めざるを得ない厳粛な事実と言えます。しかし、「死後にさばきを受けること」については、大方の人が否定するでしょう。と言っても、死後のことは誰も知りません。但し、主にあるクリスチャンは、聖書のみことばを信じています。黙示録20:14には「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」とあります。第一の死は肉体の死で、すべての人に及びます。次に第二の死は霊魂の死です。この霊魂の死は、イエス様を信じる者に及ぶことはありません。ヘブル9:28節には「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」とあります。クリスチャンはキリストを信じる信仰によって罪の赦しを受け、死後さばきを受けることがないし、生きていれば、終わりのラッパの響きのうちに、主の再臨があり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主とお会いすることを信じているのです。ですから、私たちは、イエス様を信じ、この地上での使命を果たすために目標を持って、主の来臨を待ち望みつつ歩もうではありませんか。

●2023年6月4日(日)礼拝メッセージ要旨  

●2023年6月4日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヘブル9:1~14からです。ヘブル8~10章は、聖所としての幕屋、祭司、契約などについて記されています。しばらく、同じような内容のことを学びます。本日は「生ける神に仕える者となる」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.初めの契約…1~7節では、聖所と至聖所に置かれている物、また、祭司と大祭司の役割などについて記されています。それらは、本体の影と言えるものです。今、既にイエス・キリストが救いを成就して、この新約時代から見て、それらの「影」がどういった実物の影であるのかを探ってみましょう。聖所には燭台と供えのパンが置かれています。キリストはヨハネ8:12で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。また、ヨハネ6:51では「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言われています。初めの契約では、聖所では祭司が毎日そこで礼拝していました。今日、クリスチャンは神と人との間に立つ祭司でもあります。イエス様から光を受け、いのちのパンをいただいて日々仕えていくのです。また、至聖所は大祭司が年に一度、自分と民の罪のために動物の血を携えて入るのですが、今は、キリストがただ一度の完全な贖いを成し遂げられ、天の真の聖所で仕えておられます。

2.聖霊が示しておられること…1~7節に記されているものは、10節によると、「新しい秩序の立てられるときまで課せられた、からだに関する規定に過ぎない」と言っています。つまり、新しい秩序が立てられたら無用の長物とも思えます。しかし、キリストはマタイ5:17で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言っておられます。すると、旧約の律法はどういう位置付けになるのでしょうか。ガラテヤ3:24には「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」とあり、「私たちをキリストへ導くための養育係」として位置づけるのがよいでしょう。確かに、新約聖書だけでは理解不能なことが多々あります。誰も旧約聖書が不要だと思う人はいないでしょう。却って、旧約聖書があることによって、新約聖書に対する深い理解を得られるのです。

3.生ける神に仕える者となる…11~14節は、イエス・キリストの十字架の奥義が表現されていると言ってもよいのではないでしょうか。キリストは、やぎや雄牛の血によってではなく、ただ一度、ご自分の血によって、永遠の贖いを成し遂げられました。やぎや雄牛の血による贖いでも、きよめの働きをするのであれば、「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)」そこで、私たちは、どうすれば、死んだ行ないから離れて、生ける神に仕える者とされるでしょうか。言うまでもありませんが、イエス・キリストを心から信じ、受け入れて、イエス様の御名を呼び求めることです。Ⅰペテロ4:3には「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」とありますが、本当にそのとおりです。そして、礼拝に加わり、聖書のみことばに親しみ、熱心に祈りをささげ、毎日、主の民として、証しの生活をして、生ける神に仕えていくのです。

●2023年5月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヘブル8:1~13からです。本日はペンテコステ記念礼拝です。「新しい契約」という題で、ペンテコステにまつわることを含めながら、ポイント3つ上げていきます。

1.主が設けられた真実の幕屋…昔のことですが、プラモデルが流行したことがありました。筆者自身も車のプラモデルなどを作ったことがあります。プラモデルと実物の自動車では大きな違いがあります。ちょうど、この地上的な聖所としての神の幕屋が、天そのものに設けられた本物の天の幕屋の模型であると考えると分かりやすいのではないでしょうか。イエス・キリストは、神に近づく人々を完全に救うことがおできになり、また、天の本物の聖所において、いつも生きておられて、その人たちを執り成しておられます(ヘブル7:25参照)。

2.新しい契約…ここで言う「契約」とは、モーセによる古い契約とイエス・キリストによる新しい契約です。まず、古い契約についてです。モーセは70人のイスラエルの長老たちを集めて契約の書を読んで聞かせた後、雄牛の血を祭壇に注ぎかけ、残り半分を長老たちに振りかけています(出エジプト24:8参照)。一方、キリストは、過ぎ越しの食事のあと、弟子たちに、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)」と言われ、その後、オリーブ山に出かけて祈りをされて、そのあと、十字架につけられるために捕らえられています。そして、今日、モーセのときの古い契約には欠けがあるとされ、キリストによる新しい契約について語られているエレミヤ書31:31~34がヘブル8章に引用されているのです。その新しい契約の特徴は「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。(ヘブル8:10)」とありますように、それは聖霊の働きによるものです。

3.三つの祭りとペンテコステ…最近、コロナ明けということで、日本のあちらこちらで祭りが再開されるようになりました。但し、日本の祭りは、その行われる意味とか意義について聞くことは殆どありません。旧約聖書では一年のうちに三つの祭りをするように命じられています。過ぎ越しの祭り=ペサハ、初穂の祭り=シャブオット、仮庵の祭り=スコットです。過ぎ越しの祭りは、エジプトで奴隷になっていたイスラエル人に対して神の怒りが過ぎ越し、それが大きな要因となって、奴隷から解放されたことを記念として祝うものです。初穂の祭りは、エジプトを脱出したものの、荒野を40年間もさまよい、ようやくのことカナンの地に入り、そこで農耕によって麦を育てて、それを食することができる喜びを記念して祝うものです。そして、仮庵の祭りは、出エジプト後、荒野において40年間天幕生活をした苦しみを忘れないために七日間、仮庵に住む祭りです。そして、それらの祭りは、今日のイエス・キリストを信じるクリスチャンと無縁ではありません。すなわち、過ぎ越しの祭りはイースター(キリストの十字架と復活)と重なります。初穂の祭りはペンテコステ(聖霊降臨、初代教会誕生記念日)と重なります。第一コリント12章には御霊の賜物について記されています。そもそも聖霊によるのでなければ、誰も「イエスを主です」と言うことができません(第一コリント12:3参照)。ですから、クリスチャンは既に聖霊の影響下にあるのです。しかし、そこで満足していてはなりません。聖霊に満たされること、より優れた賜物を熱心に求めましょう。そして、仮庵の祭りはクリスマス?(諸説がありますが)と再臨と重なります。と同時に、キリスト者の国籍は天にあります(ピリピ3:20参照)。主にある私たちの本籍は永遠の天にあり、そこから、この地上に遣わされている、と言えるのです。ですから、この世のものに必要以上に執着することはありません。日々の悔い改めとともに聖霊に満たされることを追い求め、この地上において、主の栄光を現わすことを目標としましょう。

●2023年5月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヘブル7:1~28からです。「メルキゼデクの位に等しい大祭司 」という題でポイント3つ上げていきます。

1.メルキゼデクとは…メルキゼデクとは、いったいどういう方だったのでしょうか。メルキゼデクは創世記14章では、18~20節までのたった3節にしか出てきません。当時アブラハムの甥のロトがソドムに住んでいました。そのとき、ケドルラオメルという王たちがソドムを襲い、ロトと彼の財産もろとも奪って行ったのです。そこで、アブラハムは自分のしもべたち318人を引き連れ、ロトたちを救出し、財産も奪い返したのです。アブラハムが凱旋すると、メルキゼデクは、アブラハムを迎え、「祝福を受けよ。アブラム(当時の名前)。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」と言って祝福したのです。するとアブラハムは戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げました。メルキゼデクはサレムの王、すなわち平和の王です。彼は父も母もいません。彼の生涯の初めも終わりもありません。そのようにヘブル7:2~3では言っています。つまり、普通の人ではない、神の人として現れています。創世記18章では、三人連れの不思議な神の人がアブラハムに現われ、彼の妻サラに翌年の今頃、男の子が与えられこと、そしてソドムとゴモラが滅ぼされることを伝えています。さらに、創世記32章では、ヤボクの渡しで神の人が現われ、ヤコブと相撲を取っています。もしかしたら、それらの神の人は、旧約時代に人として現れたイエス・キリストかもしれません。もちろん、そのことについて聖書は何も言っていませんが、言うまでもなく、キリストはクリスマスの時から存在した人物ではありません。アブラハムが生まれる前から存在し(ヨハネ8:58)、また天地が始まる前からおられたのです(箴言8:22~)。

2.レビ系の祭司との違い…モーセの時代、モーセの兄アロンは大祭司として立てられました。モーセとアロンはレビ部族の出身だったので、それ以来レビ部族が民全体の祭司の役目を担うことになりました。そのレビ族の族長であるレビはヤコブ(イスラエル)の12人息子の三番目です。またヤコブの祖父はアブラハムです。そのアブラハムはメルキゼデクに十分の一をささげました。つまり、明らかに祭司職を担うことになるレビ族の族長レビよりもメルキゼデクの方が上の立場です。それに加え、レビ系の祭司は、その務めを全うしているとは言えません。そのことが、ヘブル7:27で「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」と言っています。キリストは、律法にはよらず、いのちの力によって祭司となったのです。

3.とこしえの祭司…17~21節には詩篇110:4のみことばが分散して引用されています。元々の詩篇110:4には「は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』」となっています。「あなたは」とはイエス・キリストです。キリストはメルキゼデクの位に等しいとこしえの祭司であり、そのことは、天地のが誓って言われ、それは変わることがないのです。キリストは十字架による救いを成し遂げ、死から復活して天に昇り、天の父なる神の右の座に着き、今も、とりなしのわざを行なっておられるのです。ヘブル7:26には「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」とあるように、私たち全ての人間にとって、「まさに必要な方」なのです。キリストはメルキゼデクの位に等しい永遠の大祭司であるならば、そのイエス・キリストを信じるキリスト者は、小さな祭司でもあります。キリスト者は、イエス・キリストの救いの福音を伝え、そして、自分が関わる回りの人々のために執り成しの祈りをささげるという祭司の務めを担うことを期待されているのです。

●2023年5月14日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヘブル人への手紙6:1~20から「成熟を目ざして進もう」という題でポイントを4つ上げていきます。   

①初歩の教えをあとにして…ここでは、6つの「初歩の教え」が記されています。「死んだ行ないからの回心」とは不品行、偶像礼拝、酩酊、遊興などを悔改めて、聖なる真の神と共に歩むことです。「神に対する信仰」は救い主イエス・キリストを信じる信仰です。「きよめの洗い」とはバプテスマのことでしょうか。「手を置く儀式」とは按手の祈りのことでしょうか。「復活」はキリストの復活というよりも、キリストと同じように復活に与ることができる信者の復活のことでしょう。「永遠の裁き」とは、この世界は創造主なる真の神によって造られたのに、「この世界は偶然に出来た進化した」と言って、真の神を蔑ろにする人々に対して、当然のように神の滅びの刑罰があることを知らなくてはなりません。私たちは、こういった基礎的なことを再びやり直したりせず、むしろ成熟を目ざして進みましょう。

いばらとあざみを生えさせるなら…ヘブル6:4~6には「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」と、厳しいことが記されています。この、一度光を受けた人は、相当に恵まれた人です。しかし、そういう人だからこそ、堕落すると、多くの人に躓きを与えることになるでしょう。大地が天からの恵みを受けて有用な作物を生じるなら、神から祝福を受けます。それと同じように、私たちは神の恵みを受け、神の栄光を現わして行きましょう。基本的には、神は私たちが悔い改めるなら、罪を赦してくれます。しかし、赦されない罪があります。それは、マタイ12:13に「~人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」とあるように、御霊に逆らう冒涜、この文脈では、悪霊に憑かれて目も見えず口もきけない人を癒したキリストに対し、一人のパリサイ人が「悪霊どものかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言ったので、それに対してキリストは「御霊に逆らう冒涜は赦されません」と言われたのでしょう。

もっと良いことを…4~8節では厳しいことが書いてありましたが、9節では、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています」と言っています。私たちは、イエス・キリストによる救いを受け、希望を持ち続け、信仰と忍耐によって約束のものを受けたアブラハムに倣う者となりましょう。サッカーJ2ベガルタ仙台の背番号35番・ブラジル出身のフォギーニョ選手の好きな言葉・座右の銘は「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通します。」です。これは、第二テモテ4:7のみことばでしょう。聖書の文の最後は「守り通しました」ですが、過去形では違和感があるので、現在形で表現したのでしょう。詳しいことは知りませんが、こういう聖書のことばを知っているということは、たぶん、フォギーニョ選手は熱心なクリスチャンかと思います。こういう形で大胆にキリスト者として証しすることは素晴らしいことです。

あなたを祝福し、あなたを大いにふやす…神はアブラハムに対して、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」と言われました。その祝福をアブラハムの子孫が受け継いでいるのですが、今日、まともなクリスチャンであるなら、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、そのアブラハムの祝福を受けています(ガラテヤ3:13~14及びエペソ1:3参照)。神はアブラハムを祝福したとき、自らに誓って祝福したので、その祝福は揺るぎないものとなっています。ですから、私たちは慢心することなく、基本に忠実に、礼拝、聖書のことば、祈り、そして宣教または証しの生活を志し、平和を追い求めて歩もうではありませんか。

●2023年5月7日(日)礼拝メッセージ要旨

ヘブル人への手紙5:1~14から、「大祭司としてのキリスト」という題でポイントを3つ上げていきます。

①大祭司になる条件 …そもそも祭司とは、神と人とを仲介し、結び合わせる役目をします。その祭司の役目を担えるのは、人間としての弱さを持ち、迷っている人を思い遣ることのできる、人々の中から選ばれた人です。そして、その人は祭司として神から立てられた人です。キリストも大祭司として天の父なる神様から立てられ(詩篇2:7)、しかも、単なる祭司ではなく、メルキゼデクの位に等しい祭司として立てられた(詩篇110:4)のです。もちろん、言うまでもなく、イエス・キリストの第一義的な使命は十字架による救いです。その救いを完成したあと、復活して天に昇られ、父なる神の右に座して、第二義的にキリストを信じる人々のために執り成しをされておられるのです。ヘブル7:24~25には「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とありますが、正にその通りなのです。

②人としてこの世におられたキリスト…ヘブル5:7には「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と書いてあります。このキリストの祈りは、二つの場面が考えられます。一つはゲッセマネの園での祈り、もう一つは十字架上で息を引き取られる最後の祈り(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)です。特に、ゲッセマネでの祈りでは「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(マルコ14:36)」と祈られています。確かに、十字架を免れることはありませんでしたが、神のみこころが成され、今日、キリストを信じる全ての人々が救いに与ることが出来るのです。

あなたがたの耳が鈍くなっている … 11節では「この方について話すべきことをたくさん持っている」とあります。新改訳聖書第三版では「この方について」が※あるいは「このことについて」という注釈が付いています。2017訳聖書では「この方」が「メルキゼデク」と言っています。キリストとも言えますが、キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司ですから、どちらでも間違いとは言えません。いずれにしても、私たちは、その大祭司について、しっかりと理解し、霊的幼子ではなく、霊的な大人のキリスト者とならねばなりません。先日、筆者は、テレビで元サッカーJリーグの選手で、現女子サッカー監督・森山泰行さんのインタビュー番組を観ました。森山さんは現役時代に、チームの監督がフランス人に代わってから、先発出場が無くなりました。そのとき、それを不満に思い、チームを去って、他チームに移籍しようと考えました。しかし、彼の妻は「どこに行っても、また同じことの繰り返しよ。」と言いました。彼は妻の言う事も一理あると思い直し、考え方を変え、むしろ途中出場に照準を合わせて準備するようにしました。すると、それがハマり、途中出場で得点してチームを勝利に導くことが多くなりました。それは正に大人の考え方をするようになったということなのです。コロサイ3:12には「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」とあります。いつまでも、子どものような考え方の中に埋没していてはなりません。実は、聖書にはキリスト者は「祭司」であると書いてあるのです。第一ペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と、キリスト者は「王である祭司」なのです。

●2023年4月30日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヘブル人への手紙4:1~16から、「神の安息に入る」という題でポイントを3つ上げていきます。

神の安息に入る …創造主である真の神が六日でこの世界を創造し、そして七日目を休まれました。アダムとエバ以来、人類の歴史は約6000年が経過しています。第二ペテロ3:8には「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とあります。千年を一日とすれば、この後、千年の安息が備えられているのです。私たちは、その神の安息に入るためには、聖書のことばを信じ受け入れ、従う者となりましょう。昔、ヨシュアの時代に、約束のカナンの地に入れなかった人々は、神のことばに従わなかったのです。また、今はイエス・キリストの再臨の時が近づいているときです。民族と民族の対立、戦争、大地震、疫病、飢饉、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が起こりつつあるときに主の日(再臨)があるのです。昔、ノアの時代に、水によって世界が覆われました。それと同じように、今度は火によって世界は裁きを受けるのです(第二ペテロ3:6~7)。第一テサロニケ4:16~17にはキリストの再臨と空中携挙のことが書いてあります。その空中携挙に与(あずか)れず、地上に残されると大変です。それは明日かもしれないし、もしかしたらもっと先かもしれません。しかし、「まだまだ」と思い、霊的に眠っている状態が危険なのです。主の日がいつになってもよいように、霊的に目覚めて備えているべきなのです。

②みことばは生きて力がある…私たちが神の約束のことばを信じて祈るならば、神は祈りに答えてくださいます。例えばマルコ11:24には「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と書いてあります。さて、本当に、この聖書のことば通りになるのでしょうか。当つばめさわ教会の教会堂建設の話です。3.11大震災で被災した私たちの教会に、多くの団体や個人の方々から大きな支援がありました。しかし、現実は甘くありません。どのようにしてある程度の土地を得、そこにそれなりの教会堂を建てるのか、私たちは思案に暮れていました。出来ることは祈る事でした。すると、2013年の秋頃から事態が動き出したのです。2014年2月に土地が備えられ、2016年2月に建物が完成しました。確かに聖書の約束のことばは生きて力があります。第一ヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。神のみこころにかなう願いであるなら、実現するのです。

③大胆に恵みの御座に近づこう … イエス・キリストが十字架につけられたのは午前9時でした。そして、12時に全地が暗くなり、それが午後3時まで続きました。そのとき、キリストは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです)」と叫ばれて息を引き取られました。そのとき、神殿の聖所と至聖所を仕切っていた幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。それは、イエス・キリストの十字架の救いによって、神と人間を隔てていたものが取り除かれたのです。今、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、天の父なる神は、私たちの父でもあるのです。マグダラのマリヤが復活したキリストにお会いしたとき、キリストはヨハネ20:17bで「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」と言われました。また、ガラテヤ4:6には「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」とあります。イエス・キリストを信じる信仰によって、神が私たちの父であるならば、私たちは大胆に神に近づいて祈ることができます。