●2023年4月23日(日)礼拝メッセージ要旨

ヘブル人への手紙3:1~19からです。「最初の確信を終わりまでしっかり保つ」という題で、ポイントを3つ上げていきます。

①キリストはモーセにまさる…今日のキリスト者からすれば、キリストがモーセにまさるということは当然のことです。しかし、イエス・キリストを神の御子と認めないユダヤ人、イスラエル人にとっては「キリストはモーセにまさる」というのは抵抗を覚えることでしょう。ここで、モーセが行なったことを改めて振り返ってみます。モーセは、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人を解放するために大きく貢献しました。そして、神から律法を授かりました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五巻、つまりモーセ五書はモーセの時代に整えられました。また、モーセは地上の誰にもまさって謙遜でした(民数記12:8)。そしてモーセは神と直接、口と口で語りました(民数記12:8)。確かにモーセは特別な存在ですが、この世界を創造し、神の民であるイスラエルとモーセを生かし、支えていたのは真の神であり、御子イエス・キリストです。そして、キリストはモーセ以上に神の家に対して忠実でした。第一テモテ3:15bには、「~神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。今日、イエス・キリストを信じて従う者には、聖霊が宿り、その人が神の神殿、また神の家となるのです。

②心をかたくなにしてはならない…この章では詩篇95:7~11が引用されています。その内容は、出エジプトしたイスラエル人の多くは、荒野で「水がない」と言って、つぶやき、モーセに激しく逆らったのです。そのため、彼らは約束のカナンの地に入ることは許されませんでした。今日も、私たちは、心をかたくなにせず、柔軟な心をもって、聖書のことばを受け入れるべきです。先日、テレビで面白いニュースを聞きました。大阪の洋菓子店で、ケーキにフランス風の名前を付けたのですが、その名前が「ホンマーニ・イヤー・サ・レール(ホンマに癒される)」、「グ・ルーグ・ル・マ・ワール(ぐるぐる回る)」、「カータ・クーテ(固くて)」などというユーモアに富んだものです。但し、ケーキそのものはちゃんとした立派なものだそうです。こういった柔らかい発想は、話題にもなってケーキも売れるでしょうし、世の中を明るくするのではないでしょうか。私たちの信仰生活も、大事なところは変えてはなりませんが、聖書のみことばに従い、明るく楽しく、いつも喜び、絶えず祈り、全てを感謝していきましょう。

③最初の確信を終わりまでしっかり保つ…エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。この世界は、見えるものが全てではありません。むしろ、見えない霊が見えるものを支配しています。ヨブ記1章では、悪魔が真の神の前でヨブを訴えています。真の神、人間、悪魔、それらに関わる霊が見えない所で働いているのです。ですから、聖書の教えを知らないでいると、霊的なものなら何でも闇雲に崇めてしまい、恐れなくてもよいものを恐れてしまいます。黙示録12:10b~11a「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」とあり、第一ヨハネ5:5には「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とあります。難しいことはありません。悪魔に勝利するためには「私はイエス・キリストを神の御子と信じています。」と告白するだけです。そして、その信仰を終わりまでしっかりと保つために、毎週の礼拝に強い志をもって熱心に参加し続けることです。

●2023年4月16日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヘブル人への手紙2:1~18からです。「こんなにすばらしい救いを」という題で、ポイントを3つあげていきます。

①こんなにすばらしい救いを…1節では、「私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」と言っています。マタイ13章、マルコ4章には四つの種の例え話があります。道端に落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、どれも成長できませんでした。しかし、良い地に落ちた種は成長し、百倍、60倍、30倍の実を結びました。私たちは、聖書のことばを素直に受け入れて、多くの実を結ぶ者とならせていただきましょう。かつて私たちは、この世の教えに従い、人間は偶然に生まれて何の目的もなく生きていると考え、死の解決もないという状態でした。しかし、今は、イエス・キリストを信じる信仰によって、平安と喜びと永遠のいのちを受けました。こんなにすばらしい救いをないがしろにすることは愚かです。ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。

 ②万物の存在の目的と原因…6~8節は、詩篇8篇から引用されています。神は人間を、この世界の被造物を支配するようにされましたが、今もそれは実現していません。但し、元はと言えば、万物を創造し、支配しておられる方であるイエス・キリストが、人となってこの世に来てくださいました。そのキリストは、多くの人を義とするために十字架で苦しみを受けられました。そのことは10節で、「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」と言っています。つまり、私たち人間が存在する目的はイエス・キリストであり、存在する原因もイエス・キリストであるということです。とどのつまり、私たちはイエス様によって造られ、イエス様のために存在しているのです。今、ニュースなどで「チャットGPT」ということを聞くことがあります。AI(人工知能)が色々なことを人間に代わって行なうのです。AIによって小説の分厚い本でさえも短時間に簡単に仕上がってしまうようです。そうすると、極端に言うならば、人間の存在理由が無くなってしまいます。私たちは、そういう時代に置かれているからこそ、自分自身の存在の目的と原因はイエス・キリストにある、と理解することが必要なのです。コロサイ3:17には「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。

③主もまた同じようになられた…私たち人間は血と肉を持っているので、イエス・キリストも同じようになられ、この世に来てくださいました。そしてイエス・キリストは十字架の死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼされました。そして、さらに、キリストは大祭司として、天の本物の聖所で、クリスチャンたちを執り成しています。今年2023年の復活祭は4月9日でした。ペンテコステ(聖霊降臨記念日)はその7週間後の5月28日です。クリスチャンは、この世において、神の国を証しする使命が与えられています。ですから、私たちは聖霊に満たされ、イエス・キリストに似た者となることを求めてまいりましょう。第二コリント3:18です。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

●2023年4月9日(日)礼拝メッセージ要旨

本日はイースター(復活祭)礼拝です。マタイ27:62~28:10から、「主はよみがえられた」という題でポイント3つ上げていきます。

①十字架がもたらすもの…イエス・キリストの「復活」の前には十字架の死がありました。まず、キリストの十字架が意味するもの、十字架がもたらすものについて、改めて整理していきましょう。第一に、それは、私たちに罪の赦しをもたらします。全ての人は聖なる神の前に罪人であり、神のさばきが待っています。しかし、イエス・キリストの十字架の救いを信じる信仰によって、罪が赦され、神の子とせられ、永遠のいのちを受けるのです。第二に、私たちは悪魔の支配下にあって、死の恐怖や不安、劣等感、虚無感などの中にありました。しかし、イエス・キリストを信じる信仰により、悪魔の束縛から解放され、平安と喜びを得るのです。第三に、私たちはキリストによって豊かな人生を得ます。第二コリント8:9には「~主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあります。私たちが、キリストを模範として歩むなら、却って豊かな者となるのです。

 主はよみがえられた…マグダラのマリヤたちが墓を見に行くと、そこに天使が現われました。先に、墓の番をしていたローマ兵たちは、恐怖のあまり死人のようになりました。主の使いはマリヤたちに「イエス様はここにはおられません。前から言っておられたようによみがえられたからです。」と言いました。言うまでもなく、キリストの復活は蘇生とは違い、永遠に死なない体になったのです。キリストの復活は初穂です。私たちがキリストを信じるならば、やがてその時に、キリストと同じように復活の体になるのです。使徒の働き17:31には「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」とあります。イエス・キリストが復活したことにより、この方は確かに神のひとり子であるということと、その十字架による救いが明らかなものとなりました。また、やがて、キリストによってこの世界がさばかれるということも確かなものとされたのです。

 ③ ガリラヤに行きなさい…復活したキリストは、マグダラのマリヤに「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」と言われました。四福音書を調べると、その後、キリストはエルサレムで弟子たちに現われ、そのあとで弟子たちがガリラヤに行き、そこでキリストにお会いしています。そして、弟子たちは再びエルサレムに戻り、キリストがオリーブ山から天に昇られるお姿を見届けています。結局、復活後50日目にして、聖霊が弟子たちに降り、そこから初代教会が始まり、全世界に福音が伝えられて行くのです。弟子たちがキリストを信頼して、従って行ったように、今日、私たちも、イエス・キリストを信じ、従ってまいりましょう。ローマ14:7には「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。」とあります。そんなに大きなことをしようと思わなくてもよいのです。キリストにあって、まず、すぐ近くにいる人の幸いを願って自分にできる行動をすればよいのです。そこから始まって行くのです。

●2023年4月2日(日)礼拝メッセージ要旨  

本日からヘブル人への手紙に入ります。誰から誰に宛てて書かれた手紙であるのか、明確なことは不明です。ただ、その内容は「ヘブル人向け」であることは明確です。創世記14:13には「ヘブル人アブラム」と出てきます。ヘブル語を使うアブラハムの子孫、またはユダヤ教の影響を受けている人々に宛てて書かれた手紙です。「御子は神の栄光の輝き」という題でヘブル1章からポイント3つ上げていきます。    

1.御子は神の栄光の輝き…アダムとエバの時代から今日まで約6000年が経過しています。今から、およそ2023年前に神の御子イエス・キリストが世に現われました。そのキリスト以前には、神は預言者たちを通して語っておられましたが、それ以後は、御子によって語っておられます。御子は万物の相続者です。マタイ28:18でキリストは「わたしには天においても地においてもいっさいの権威が与えられています」と言われました。また、御子は世界の創造者でもあります。ヨハネ1:3では「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。そして、御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現われでもあり、みことばによって万物を保ち、罪のきよめを成し遂げました。「神の本質」、それは、私たち人間を愛されたということではないでしょうか。第一ヨハネ4:9には「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」とあります。この事実は本当に大きなことです。一方、日本の多くの人々は、偶像礼拝をしています。木や石や金属などで作られた偶像の神々を拝んでいます。どんなに精巧に偶像を製作しても木は木、石は石、金属は金属、運んだり、汚れをぬぐったり、人間がお世話しなければなりません。そのような偶像が人間の願いを聞いたり、問題を解決したり、祝福を与えたりするということなどは決して出来ません。私たちは、心の目が開かれて、偶像ではなく、人の目には見えないけれども実在の生ける真の神、しかも自ら十字架によって愛を示された御子イエス・キリストの救いを受け入れ、この方の愛と祝福の中を歩んでまいりましょう。

 2.神のみ使いとの比較…創世記18章で、神は二人のみ使いを伴い、三人の姿で、アブラハムに現われています。そのとき、一年後、アブラハムの妻サラに子が与えられること、また、ソドムとゴモラのさばきについてアブラハムに知らせます。ルカ1章では、み使いガブリエルが祭司ザカリヤに現われ、彼の妻エリサベツに子が与えられることを告げ、その半年後、今度は処女マリヤに聖霊によって、救い主がお生まれになることを告げます。使徒の働き27:24では、パウロが囚人として護送された船が難船しているとき、神のみ使いがパウロに現われ「恐れてはいけません」と励ましています。み使いは仕える霊であって、救いの相続者に仕える(14節)のです。ここでは、御子イエス様は、そのみ使いたちよりもさらに優れたものとして示されています。

 3.御子について…8~12節では、詩篇45:6~7から、また詩篇102:25~26からの引用が挿入されています。要約すると、御子は世界を正しく裁かれ、神とともに立つ者に喜びの聖霊を注がれるということです。そして、御子はこの天地を創造したのであるが、やがて、この天地が滅びる時が来るということ。だから、私たちは、この世の見えるものに執着するのではなく、とこしえに変わることのないものに目を留めるべきであるということです。第一ペテロ1:24~25には「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあります。聖書のみことばを信じ、信頼していきましょう。

●2023年3月26日(日)礼拝メッセージ要旨 

ピレモンへの手紙1~25からです。この書は、パウロからピレモンへの個人的な内容の手紙であって、聖書の中にあっても独特な色彩を放っています。「同労者ピレモンへ」という題でポイント3つ上げていきます。    

1.主イエスに対して抱いている信仰…ピレモンは、パウロから「同労者」と呼ばれています。またピレモンの家は教会として用いられていたようです。ということは、ピレモンはイエス・キリストを信じた喜びのゆえに、自分を主にささげ、自分の所有する家を教会として提供したのでしょう。先週はWBC世界野球で、日本が優勝し、国中が大喜びでした。決勝でのアメリカ戦で、大谷投手が最後のバッターをアウトに取ると、日本選手たちは集まって飛び上がりながら大喜びしました。旧約聖書の最後のページ、マラキ4:2には「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」とあります。やがて、主にある私たちが天の御国に凱旋することを許されるならば、その喜びのゆえに、牛舎の子牛のように飛び跳ねるでしょう。また、その前味として、この地上にいるときに天の喜びの一端を、キリストを信じる信仰のゆえに体験している人もいるでしょう。

 2.親切は自発的であるべき…このピレモンへの手紙は、「気配りの手紙」とも言えます。パウロとピレモンの関係は、教会の中ではパウロが指導者として、ピレモンに対して何か命令的に指示を出しても良かったのですが、パウロはそれを好まず、ピレモンが自発的に行動することを願いました。それは、ローマの獄中にいたパウロは、ピレモンの奴隷であったオネシモに出会い、そこでオネシモはパウロの福音宣教によって改心することになります。たぶん、オネシモはピレモンの元から脱走し、もう戻れない状況にあったのでしょう。そこで、パウロが仲立ちをし、ピレモンに対して、オネシモのことを赦し、受け入れるように勧めているのです。そればかりでなく、18節では、もしオネシモがピレモンに対して負債を負っているのなら、それを自分が肩代わりすると言っています。このパウロの姿は、キリスト・イエスのうちに見られるものです。ピリピ2:6~8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とあります。個人対個人、国対国もそうですが、相手の幸いを願い、自己を犠牲にしてでも行動するとき、そこには争いも戦争も生じる余地はありません。

 3.宿の用意もしておいてください…パウロは、この手紙の最後で、自分のための部屋を用意するようにピレモンに命じています。それは元々、パウロとピレモンの関係は、そのように命じてもおかしくない関係だったのでしょう。この手紙全体を読んだピレモンの様子を知ることはできませんが、たぶん彼は、パウロの願いを快く受け入れたことでしょう。パウロはピレモンに対して、オネシモの事に関しては控えめに、自分自身の事に関しては遠慮なく率直に語りかけています。極端な例ですが、同じヨハネ2章で、キリストはカナの婚礼では水をぶどう酒に変える奇跡を行なわれ、エルサレムの神殿では商売している人たちの台を倒されました。それもこれも神の愛に基づいて行動されたのです。私たちも、日常生活において人と接するとき、基本的には柔和で優しくも、時に、状況に応じてストレートな対応をしなければならないこともあるでしょう。

●2023年3月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

テトス3:1~15からです。「なくてはならないもののために」という題でポイント3つ上げていきます。

1.以前は愚か者であり…教会では、おもに、三つのことを毎週のように教えています。それは第一に、この世界を創造し、そこに私たち人間を住まわせている聖なる真の神様がおられるということ。第二に、私たち人間は、その神の前に罪人であるということ。最初の人であるアダムとエバがエデンの園で食べてはいけない木の実を食べてしまい、それ以来、全人類に罪が入ってしまいました。全ての人は聖なる神の前に罪人であり、神の裁きを免れることはできないということです。第三に、救いの道が開かれているということです。神は私たち人間を愛し、ひとり子イエス・キリストを世に遣わし、十字架による救いの道を開いてくださいした(ヨハネ3:16参照)。3節に「以前は愚か者であり」と言っているように、神を知らず、神を無視して生きてきた私たちは、自らの愚かさ、罪深さを悟り、「イエス様が私の罪の身代わりに十字架に架けられ、死なれ、葬られ、三日目に復活した」ということを信じ、そして従順で、すべての良いわざを進んでする者となり、柔和で、誰にも優しい人とならせていただきましょう。

2.聖霊による新生と更新…イエス・キリストを信じると、永遠のいのちを受けます。それは、死んでから始まるのではなく、信じたその時点から始まっているのです。それは、キリストの名によって与えられる助け主なる聖霊が共におられ、信じる私たちを新しくし、喜びと平安を与えてくださり、聖霊の満たしと、あらゆる祝福を与えてくださるからです。旧約聖書にあるように、イスラエル民族はエジプトで奴隷になっていました。しかし、神はモーセを遣わし、エジプトの奴隷から解放し、荒野を通って、乳と蜜の流れるカナンの地へと導かれました。それは、今日、悪魔の奴隷となっていた私たちが、イエス・キリストを信じて、罪赦され、悪魔から解放されて、神の子とされ、永遠のいのちの祝福の中に入らせていただくことの雛型(ひながた)となっています。もちろん、クリスチャンになっても時に試練はあります。でも、神の民とされた者には「祈り」があります。悔い改めとともに、切に、主の御名を呼び求めるならば、主がその祈りを聞いてくださいます。

3.なくてはならないもののために…今、世界野球・WBCが行われ、日本チームは順当に勝ち上がり、メキシコと準決勝を戦おうとしています。そのメキシコに準々決勝で敗れたプエルトリコですが、その前のドミニカとの試合で、エドウィン・ディアス投手が9回を三者三振で封じ込めて勝利に貢献しました。しかし、その直後、勝利を喜んで、皆で飛び跳ねているとき、ディアス投手は右ひざを怪我し、WBCのみならず、今シーズンはプレーできない状態になってしまいました。まだ優勝したわけでもないのに、ちょっと油断したため、思わぬ事態を招いてしまいました。これは、野球のことですが、私たちは、この地上でそれぞれに与えられている使命、すなわち、なくてはならないもののために、正しい仕事に励まなくてはなりません。私たち人間の基本的な生き方、それは「神と人とを愛して生きる」ことです。キリストは、マタイ22:36~40で、律法の専門家の質問に答え、大切な戒めは、第一に「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と言われ、第二に「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」と二つのことを言われました。別の言い方をしますと、イエス様を信じて従い、私たちが関わる全ての隣人(となりびと)の祝福を祈り、聖霊に導かれつつ神のみこころを行なっていきましょう。

●2023年3月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

テトス1:2~15からです。老人や若い人などに対する教えで、内容的には第一テモテ5章と似ています。ここから、「良いわざに熱心なご自分の民」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.健全な教え…2節には「老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。」とあります。次に、老婦人は「悪口を言わず」、若い人々は「思慮深く」、奴隷は「すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず」と言っています。現在では「奴隷」というのは人権的に問題ですから、部下と上司に重ね合わせればよいでしょう。今、WBC世界野球が行われています。大谷選手が注目を浴びていますが、日系選手のヌートバー選手も話題を集めています。特にヒットを放ったときのペッパーミルポーズが話題となっています。「身を粉にして働く」と言う意味であのポーズを行なっているとのこと。日本では「ゴマすり」という言葉があります。こちらは自分の利益のために他人にへつらうことで、良い意味で使われてはいません。そうです。私たちは、神の栄光のために身を粉にして、神と人とに仕えて行きたいと思います。

2.すべての人を救う神の恵み…11節に「すべての人を救う神の恵みが現われ」とあります。ここで改めて「救い」とは何かを考えてみましょう。使徒の働き26:18には「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」とあり、聖書が言っている「救い」ということを、深く、的確に、この1節をもってで表現していると言えます。正に、闇の力がこの世を支配し、この日本においては巨大新興宗教が跋扈し、偶像礼拝が蔓延しています。そういう中で、霊の目が開かれ、キリストの十字架による救いを受けた人々は極わずかです。確かに、「神は全ての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます(第一テモテ2:4)。」とありますので、キリスト者も、そのことを願い行動すべきです。しかし、最終的な責任は、福音を聞いた個々人の決断にかかっています。つまり、キリスト者に課せられた責任は福音を伝えるということです。マタイ24:14には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。キリスト者は、この世にあって敬虔に生活し、イエス・キリストを証し、福音を宣べ伝えることです。

3.良いわざに熱心なご自分の民…今、私たちは、主の再臨が近づいている終末の時代を迎えつつあると言ってよいでしょう。「主の再臨」、それは神の救いとさばきの時です。そのとき、私たちはどうあるべきでしょうか。14節には「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」とあり、おもに、二つのことを言っています。「熱心」と「きよめ」です。黙示録3:15には「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」とあります。冷たくて良いはずがありません。やはり、心を熱くしていなければなりません。そして、ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストをいつも見上げつつ心熱くし、そして聖い生き方を求め、神に仕えてまいりましょう。

●2023年3月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

テトス1:1~16からです。テトスへの手紙はテモテへの手紙に似たところがあります。長老や監督の任命と、その職の条件などに言及しています。また、偽りの教えなどにも注意を促しています。ここから、ポイントを3つ上げていきます。

1.この宣教を委ねられた…パウロは使徒として神に召され、「私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。」と言っています。ここで、「宣教」ということについて改めて考察したいと思います。旧約聖書のヨナ書で、ヨナは、全能の神から、当時、イスラエルを脅かしていたアッシリヤの首都ニネベに行って神の指針のことばを伝えるように命じられます。ヨナは、一旦は拒むものの、結局、ニネベに行き、「もう40日もすると、ニネベは滅ぼされる」と叫びます。すると、ニネベの人々は身分の低い者から王様まで悔い改めます。今日、イエス・キリストが救い主として世に来られて十字架で救いを完成されて以来、世界中で福音が宣べ伝えられています。全ての人は聖なる神の前に罪人です。その罪ゆえの裁きを免れるためには悔い改め、イエス・キリストを信じ受け入れるしかありません。そのことを伝えるのが宣教であります。ある意味、単純で、「救いか滅びか、信じるか拒むか」です。第一コリント1:21には「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とあり、救いは人間の知恵に基づくものではなく、神の知恵、神のわざによるのです。ですから私たちは、人を滅びから救い出すキリストの十字架の福音に基づいて、人々に明確な宣教のことばを語るべきなのです。

2.みことばをしっかり守る…5~9節では、長老、監督になるための条件などが記されています。9節では、「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。」と、他の人々を教えるためには、自らがみことばによって整えられていなければなりません。イギリスで孤児院を開設して多くの孤児たちを救済したジョージ・ミュラーは、若い時は非行少年だったようです。二十歳の頃改心してクリスチャンになり、92歳で召天するまで、聖書を100回通読したということです。彼は、晩年には日本にも来て、石井十次(孤児救済)や山室軍平(救世軍)にも感化を与え、新島襄の招きで同志社でも講演をしています。聖書をよく読むことによって、聖書の真理を悟り、そのみことばに基づいた行動に進むことが出来ます。私たちも今以上に聖書に親しみ、神の人として整えられましょう。

3.きよい人々にはすべてのものがきよい…クレテは、ユダヤ教に影響された偽教師や不健全な人々が多い傾向があったようです。そこで、パウロは「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。」と言っています。例えば、暗やみに光があるとイメージしましょう。光の方に向かえば光に照らされます。しかし、光に背を向け、闇に向かって行くなら益々暗くなります。ヨハネ8:12で、キリストは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。イエス様を信じ、イエス様を求め、光の中を歩んでいきましょう。

●2023年2月26日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二テモテ4:1~22からです。この第二テモテは、パウロの書いた最後の手紙と言われています。しかも、その最後の4章ですから、正に最後の最後ということになります。「みことばを宣べ伝えなさい」という題で、ポイントを3つ上げていきましょう。

1.みことばを宣べ伝えなさい…1節では「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」 とあります。パウロは、彼自身、厳粛な思いをもって、テモテに大事なことを伝えようとしています。それが「みことばを宣べ伝えなさい」ということです。キリストご自身も、マルコ16:15で「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言われ、キリスト昇天後、初代教会が誕生した後は、ペテロ、そしてパウロにより世界宣教が行われてきました。ウィクリフ聖書翻訳協会2022年の状況によりますと、世界の言語は7388言語もあるとのことで、聖書全巻訳は724言語、新約聖書のみは1617言語、分冊のみは1248言語となっています。現在2846言語が翻訳中で、まだまだ聖書翻訳が求められているとのことです。この第一のポイントのまとめとして、5節で、パウロはテモテに「あなたはどのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」と言っています。

2.走るべき道のりを走り終え…パウロはAD64年頃、ローマ皇帝ネロによって殉教したと言われています。暴君ネロの登場により、パウロは自分の殉教の日が近いことを感じていたことでしょう。しかし、パウロは7節で「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言っています。私たちも、パウロのように、自分の信仰を最後の最後まで守り通したいものです。その際、大事なことは、自分の人間的な力によるのではなく、神の力に支えられるということが大切です。今年の3月11日で東日本大震災から12年です。筆者は、震災直後の二日目から、つまり3月12日、13日、14日と、三日連続で、聖書のことばによって励ましを受けました。そのうちの3月13日には「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33b)」のみことばによって励ましを受けました。キリストもマタイ28:20bで「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言っておられます。聖霊様はクリスチャンの心の中におられ(第一コリント6:19)、またクリスチャンの外側にも着せられている(ガラテヤ3:27)のです。そして、義の栄冠がパウロに用意されていたように、主の現われを慕っている者には、誰にでも授けてくださるのです。

3.上着を持って来てください…9~22節では、パウロと関わった人々の名前が出てきます。ある人はパウロを見捨て、また、ある人はパウロを助けました。やはりパウロは、自分を助け、協力した人に対して祝福のことばを述べています。さて、ここで、パウロはテモテに「上着を持って来てください」と言っています。パウロは本当に上着が必要だったかもしれませんが、殉教を前にして、愛弟子であるテモテに出会って励ましを受けたかったのではないでしょうか。パウロでさえ、そうであったように、私たちも弱い者で、物心両面の助けが必要です。言うまでもありませんが、主イエス・キリストの信仰を全うしていくために、私たちも互いに祈り合い、支え合い、助け合っていこうではありませんか。

    

●2023年2月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二テモテ2:1~17から「聖書はすべて神の霊感による」という題でポイント3つ上げていきます。

1.終わりの日には困難な時代が…この2~5節では、終わりの日には「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり…」などと、実に17項目について記されています。イエス・キリストがマタイ24:12で「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と言っておられ、やはり終わりの時代には、そういった混沌とした、愛の冷える傾向に進むようです。現在は終わりの日を迎えつつあると言えるでしょうが、昨今の様々なニュースなどから、確かにそう言えるかと思います。しかし、キリストの救いに加えられた私たちは、5節にありますように「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」などには決してならず、むしろ、世の光、地の塩として、先週の2章で学んだように「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求める(Ⅱテモテ2:22参照)」者でありたいと願います。

2.敬虔に生きようと願う者は…11節で、パウロは、現在のトルコ、当時の小アジアのアンテオケ、イコニウム、ルステラで迫害や困難に遭遇したと言っています。使徒16章では、パウロはルステラでテモテに出会ったようです。テモテはパウロに従順に仕え、やはり、同じように迫害や困難を経験したようです。(※注釈…アンテオケという地名は聖書では2か所に出てくる。パウロが宣教の拠点にしていたのはシリヤのアンテオケで小アジアのアンテオケは別の所。なお、シリヤのアンテオケは最近の地震のニュースではアンタキヤ(アンティオキア)という名称で紹介されている。)、現在、トルコはイスラム教一色に覆われているようですが、最近、当教会に届いたメールによりますと、やはり、トルコにも福音的な教会が現存しているようで、信頼できる某団体を通して、日本から、そこに支援しようとの呼びかけが来ています。さて、12節では「敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受ける」とあります。イエス・キリストを信じる信仰は、何にも代えがたいものです。確かに迫害や困難は歓迎出来ませんが、それによって信仰姿勢を変えるようでは、神の民としてふさわしくありません。但し、主の祈りの中には「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)」とありますから、すべての悪から守られるように謙虚に祈ることはよいことです。イエス・キリストは、私たちの罪をその身に負われて、贖いを成し遂げただけではなく、今も生きて、私たちを執り成してくださっています。

3.聖書はすべて神の霊感による…1445年、グーデンベルクが活版印刷技術を考案して以来、今日、誰もが簡単に(政治体制的な問題がなければ)聖書を持つことが出来ます。聖書が語っている天地を創造した真の神様がいらっしゃるなら、ご自分のメッセージを残し、それをまとめて、私たち人間がそれを理解することが出来るように形にして残されることでしょう。実際に聖書はBC1500年からAD100年くらいまでの1600年の間にかけて、40人ほどの執筆者によって、統一されたものとして、今日に残されています。そのことがイザヤ34:16に「の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」と記されています。聖書は、私たちに救いを受けさせ、教えと戒めと義の訓練に有益で、神の働き人として整えてくださいます。すべてが聖なる神の霊感によって書かれていますから、何を読むよりも遥かに有益なもので、これを読まないということは大きな損失でもあります。私たちは、これまで以上に益々聖書のみことばを慕い求めてまいりましょう。