2012.9.9礼拝メッセージ要旨(マタイ6:25~34)

第一のポイントは、「心配しない」です。この箇所には「心配」という言葉が6回も出てきます。もちろん、それは「心配しなくてもよい」という意味で使われているのですが、それだけ、私たち人間は心配をしてしまうということでしょう。ここでは、なぜ心配無用なのかという根拠が語られています。それは、創造主である神が人間を創造したのなら、神ご自身の側で私たち人間に対して責任を持ち、心配してくださるからです。確かに私たち人間が自分のことで心配したからと言って、少しでも寿命を延ばすことはできません。しかし、人間、「心配無用」と、頭では理解できたとしても、それでも心配してしまうものです。そこで、必要なことは、心配を主に委ねつつお祈りすることです(ピリピ4:6~7)。第二のポイントは、「労苦」です。34節には「労苦はその日、その日に十分あります」とあります。この「心配するな」という一連の箇所は、労苦するということを前提に記されています。使徒パウロも、その手紙の中で、自ら、労苦、奮闘を実践し、勤勉であることを奨励しています。第三は、「神の国とその義とをまず第一に求める」です。第一と第二のポイントのように、心配しないで勤勉な生活をしていればそれでよいかというと、そうではありません。最も大切な「人間何のために生きるのか」ということが定まっていません。「神の国とその義」、神の国とは、天国とか永遠のいのちでしょう。その義とは何でしょう。イエス様は、あるとき、律法学者の質問に答えて、大切な二つの戒めの話をされました。第一に、「神を愛する」、第二に「隣人を愛する」、聖書はこの二つの戒めにかかっていると言われました。結局、「永遠のいのち」は、自分だけでなく、隣人である周りの人々も得なくてはなりません。そのために生きる。神の国とその義を求めるとは、短く言い換えますと、神のみこころに叶った歩みをするということです。それぞれに与えられている神のみこころのうちを歩むならば、主は必要を満たしてくださると約束してくださっています。

2012.9.2礼拝メッセージ要旨(マタイ6:16~24)

第一のポイントは、「断食について」です。聖書では、断食について、比較的多く取り上げられています。イエス様は荒野で40日の断食をされました。個人的な断食はもちろん、民族全体で断食する場面がエステル記やヨナ書などに見られます。「この種のものは、祈りと断食によらなければ~(マタイ17:21)」とあり、当然、切なる祈りも必要なときがあるでしょう。いずれにしても、断食は人に見せるために行われるものではなく、主に対して行われるものです。第二は、「宝を天に蓄える」です。この世において集めたもの、蓄えたものは一時的なもので、結局、消えてなくなってしまいます。神のみこころに従って行なった行為のみがいつまでも残り、永遠の天に宝として蓄えられるのです。第三は、「からだのあかりは目」です。私たちの目、その心がどこを向いているかということが大切です。闇に向いていれば暗く、光に向いていれば明るいでしょう。どんな時も、いつも、光であるイエス様に心を向け続けるならば、主が最善に導いてくださるでしょう。第四は、「二人の主人に仕えることはできない」です。神か富かというとき、富は悪者扱いされやすいものですが、富そのものは悪ではなく、むしろ、富は、健全に用いられて主の栄光を表わすことができるなら素晴らしいものです。イエス・キリストの父なる神を主人として、その上で、この世の富が用いられるべきでしょう

2012.8.29祈祷会メッセージ要旨(詩篇92篇)

この詩篇92篇は、表題に「安息日のための賛歌」であるとあります。1~3節では、十弦の琴をもって主に賛美と感謝と真実を言い表すことは良い事だと言っています。5節には「主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。」とあり、それだからこそ、主は賛美されるにふさわしい方であるということです。7節では「悪者がたとい栄えたとしても、それは永遠に滅ぼされるためである」と、そういった内容のことをズバリと表現しています。そして、10~14節では、信仰者は、高く上げられ、新しい油を注がれ、神の大庭で栄え、年老いても実を実らせ、みずみずしくおい茂ると言っています。この詩篇の結論は、結局、1~3節に戻ります。どんな状況の中でも「主に感謝し、賛美をささげ、主の真実を言い表す。」こと、それこそ、真の信仰者のあるべき姿です。最近読んだある読み物には、「良くない出来事の中にも必ず良い側面があり、その肯定的な事柄に目を留めて強調することである。」とありました。また、「小さな勝利を経験する度にお祝いすることを習慣化しましょう。」とありました。正にそうです。主は偉大な方、その御計らいは深いのですから、つぶやいたら損ですね。いつも感謝と賛美を言い表しましょう。

2012.8.22祈祷会メッセージ要旨(詩篇91篇)

「みつばさのかげの~♪」というような賛美歌などはこの詩篇91篇4節のみことばから生まれているのではないかと思います。この詩篇には、イエス様が荒野で試みを受けたとき、あの悪魔が用いたみことばも11~12節にあります。もちろん、悪魔が勝手に、みことばの使い方を誤ったのですが。1節は「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」とありますが、1節から13節まで、創造主である全能の神を信じる信仰者には、特別な守りと助けがあるという約束を、表現を変えて何度も繰り返しています。
14節から16節を見ますとさらに素晴らしい約束があります。つまり、天の神様が、信仰者に対して、「助け出そう」、「高く上げよう」、「祈れば答えよう」、「誉れを与えよう」、「長いいのちで満ち足らせて、救いを見せよう」と言っておられます。主が私たちに多くの恵みと祝福で満ち足らせようとしておられます。しかし、そうなるためには一つのキーワードがあります。14節には「彼がわたしを愛しているから~」とあり、神を愛する人が祝福されるのです。そこで、神を愛するとはどういうことでしょう。ヨハネ14:15を見ますと、神様(イエス様)を愛する人はイエス様の戒めを守る人です。聖書のみことばをよく読み、それを実行する人です。もちろん、神様とよく交わり、聖霊のみ声を聞いて、聖霊様に従う人です。

2012.8.12礼拝メッセージ要旨(マタイ6:1~8)

三つのポイントをあげて学びましょう。第一のポイントは「隠れた施し」です。良いことをしたけれど、全く人に認められない、そういうことがあるものです。でも全能の神様はちゃんとご覧になっていて、却って、人に知られていない良い行ないや施しに対して報いてくださるのです。人に隠れた所で良い行ないをする、それがクリスチャンの品性にふさわしいものです。第二は、「祈りのスタイルです。」です。基本的に祈りは天の神様にささげられるものですから、神様と自分との個人的な祈りが大切です。しかし、集会の中とか何人かで集まって人前で祈りをすることもあり、案外、その人前での祈りできるようになることも信仰の成長に役立つものです。さて、祈るときのスタイルですが、こうでなければならないという特定のスタイルはありません。どんなスタイルで祈ってもよいでしょう。ただ、使徒20:36、21:5を見ますと、パウロらが「ひざまずいて」祈っています。ステパノも殉教するときひざまずいて祈っています。イエス様もオリーブ山のある場所でひざまずいて祈っています。第三は、「祈りの奥義」です。祈りも施しと同じように隠れたところで見ておられる天の神様にささげられなければなりません。まず、イエス様の御名によって、天の父なる神様に心を開き、神様を迎え入れ、そして、共に食事をするように(黙示録3:20)豊かな交わりをします。祈りは一方通行ではなく、神様の言われることを聞くということも大切です。もちろん、祈りは自分の願い事を言います。求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)とありますから、遠慮なく求めましょう。あなたの口を大きく開けよ。(詩篇81:10)ともありますから、神様の限界を自分で決めないで、むしろ神様のスケールに合わせて祈りましょう。

2012.8.5礼拝メッセージ要旨(マタイ5:33~48)

四つのポイントをあげて学びましょう。第一のポイントは「『はい』は『はい』とだけ言いなさい」です。ここで、イエス様は誓ってはいけないということよりも、果たすことのできない誓いや約束を軽々しくしてはいけないと言っているのでしょう。イエス様ご自身も決して誇張も偽りもない方で、真実な歩みを貫かれました。私たちはこのイエス様に倣ってまいりましょう。第二は、「2ミリオン行きなさい」です。何か頼まれたら、その頼まれた通りにするのが一般的です。ここでイエス様は頼まれた倍を行なえと言っています。現実的には、その精神を学び、実生活の中で相手の要求を超えた真心を示すということでしょう。第三は、「自分の敵を愛しなさい」です。このみことばが世界中で実行されたら決して争いも戦争も起こらないでしょう。私たちは、敵どころか味方とさえもうまくいかない場合もあります。先々週から先週にかけて私は台湾教会などを訪問させていただきました。現在、台湾では著しい教会成長が起こっています。その要因の一つは教会が一つになっていることです。一人の牧師さんが呼びかけて、まず集まってお茶飲みから始めたということです。関わるすべての人に関心を持ち、大切に思う。そこから、神のわざが始まるでしょう。第四は、「完全になりなさい」です。私たち人間は不完全で、誰でも弱さをもっているものです。しかし、パウロは第二コリント12:9で、神の力は弱さのうちに完全に現われると言っています。また、「完全になりなさい」というのは、成長しなさいという一面もあるでしょう。それぞれ、その人に与えられた使命があります。その使命に100%生きるという意味もあるでしょう。

2012.7.15礼拝メッセージ要旨(マタイ5:17~32)

三つのポイントをあげて学びましょう。第一は「律法の成就」です。イエス様は、当時、戒めを守るように民衆に対して指導していた律法学者やパリサイ人とは対立する関係にありました。しかし、イエス様は、律法を廃棄するためではなく、成就するために世に来られました。今日、イエス様を信じる人には聖霊が注がれ、石のような心が取り除かれ新しい本来の人間の心が与えられるのです(エゼキエル36:26)。律法を守りきるということは人間には不可能ですが、イエス様によって律法を成就することができるのです。第二は、「人を殺してはならない」です。ここでイエス様は、「能無し」「ばか者」という者は燃えるゲヘナに投げ込まれると言っています。殺人という行為は、まず、その人の心から発生するのです。案外、どのような人にも「あの事だけは赦すことができない。」というような心の闇の部分があるものです。その部分をイエス様に解放していただくことによって真の祝福を受けるのです。第三は、「姦淫してはならない」です。「姦淫」は、一般社会では「罪」という認識は薄く、聖書の見解とは異なります。このような姦淫と罪の時代にあって(マルコ8:38)、未婚者は聖い生き方を求めて、やがて良い伴侶に出会い、また、既婚者も、油断することなく、日々、へりくだって祈り、良き家庭を築き上げ、勝利の信仰を全うしてまいりましょう。

2012.7.8礼拝メッセージ要旨(マタイ5:10~16)

三つのポイントをあげて学びましょう。第一は「義のための迫害」です。3~10節まで、「~な者は幸いです。」と八つ記されています。一番目の「貧しい者は幸いです。」と最後八番目の「義のために迫害されている者は幸いです。」のみ、そのあとに続くことばが「天の御国はその人たちのものだから」です。キリスト教の歴史は迫害の歴史という一面もあります。殉教に至るケースなどは、決して生易しいものではないでしょうし、軽々しく語ることもできません。義のために、イエス様を信じる信仰のゆえに迫害を受けるということは、天においての報いが大きいのです。永遠の神の視点で見るなら大きな祝福です。ですから、迫害されたら喜びおどりなさいと言っています。第二は、「地の塩」です。塩は生ものなどの腐敗を防ぐ効能があります。霊的な意味において、キリスト者は世の腐敗を防ぐため、自分自身のうちに塩気を保ち、且つ、塩味の効いた思いやりのある言葉や態度を身に付けましょう。第三は、「世界の光」です。私たち人間は、本来、良い行ないをするために形造られ生かされています。しかし、多くの人は、生きる目的を見失い、死後の魂の行き先さえも知りません。イエス様がこの世に来られたのは、信じる者が罪の赦しを受け、生きる目的と希望を持って聖く生きるためです。イエス様の十字架による救いにより、世の光そのものであられるイエス様を証しする者となりましょう。

2012.7.4祈祷会メッセージ要旨(詩篇86:1~17)

表題に「ダビデの祈り」とあります。この詩篇の四つの段落の最初のことばはすべて祈りの文言です。この詩篇の本音と言いましょうか、一つのポイントが現われている節は14節でしょう。ダビデは自分に敵対する者たちによって様々な圧迫を受け、その解決を願っているのです。しかし、ダビデは、単に、問題解決を願っているのではなく、「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(11節)」と、自分自身が神の側についていなければならないということを認識しています。神から離れた生活をしていて、願い事のあるときだけ神に祈るという姿勢は神に受け入れられません。14節の末尾では「彼らは、あなたを自分の前に置いていません。」とあり、逆にダビデ自身は、詩篇16:8で「私はいつも、私の前に主を置いた。」と言っているように、いつも主とともに歩むということに心を向けています。私たちの生活の中では、誰であれ、物事がうまくいくこと、またハッピーであることを求めます。でも、その前に、自分は天の神様と心一つになっているか、主を、そしてイエス様を自分の前に置いているかどうかということが問われなければなりません。そして、最後の17節で「私に、いつくしみのしるしを行なってください。そうすれば、私を憎む者らは見て、恥を受けるでしょう。」と祈っています。全知全能の聖なる神と共に歩む人、その人の祈りに主が答えられて、主の御名があがめられますように。

2012.6.24礼拝メッセージ要旨(マタイ5:1~9)

 マタイ5~7章は山上の垂訓と言われています。9節まで七つのポイントで学びましょう。
 第①は、「心の貧しい者は幸い」です。人間、豊かで恵まれていたほうが幸いであると言えますが、案外、そういう時は、慢心したり傲慢になったりするものです。自分の弱さ、愚かさ、そして罪深さを悟った人が、イエス様の十字架の救いを必要と覚えて救いに与り、それゆえに真に幸いな人となるのです。
 第②は、「悲しむ者は幸い」です。この世に生きている限り、苦しみや悲しみを避けることはできないでしょう。しかし、そういったマイナスは決してマイナスだけで終わるのではなく、却ってプラスになることが多いものです。神を信じる者にとっては、すべてのことが益となります。
 第③は、「柔和な者は幸い」です。創世記のイサクは争わない人でした。自分たちが掘った井戸を何回か奪われても、その都度、他の場所で新たに井戸を掘りました。結局イサクは、最終的に広い土地を得て、所有物も増え、祝福を受けました。
 第④は、「義に飢え渇く者は幸い」です。私たちの心は何によって真の満足を得られるのでしょう。物質的な不足が満たされればそれでよいということはないでしょう。義に飢え渇く、つまり、究極的には、神のみこころに従うとき心満たされるのです。
 第⑤は、「あわれみ深い者は幸い」です。神は恵み深い者には恵み深く、全き者には全くあられ、きよい者にはきよく、曲がった者にはねじ曲げる方です(Ⅱサムエル22:26~27)。私たちの生き方、あり方がそのまま跳ね返ってくるのです。神のあわれみを受けたいと願うなら、あわれみ深い者となりましょう。
 第⑥は、「心のきよい者は幸い」です。ヘブル12:14には「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」とあります。聖い生き方を求めていくとき、神様を体験する。神が生きて働いてくださるのを見るのです。
 第⑦のポイントは、「平和をつくる者は幸い」です。人と人との関係も大事ですが、もっと大事なのは神と人との関係が修復されていなければなりません。イエス様は神の怒りの下にある人の罪を十字架によって、その身に負い、神と人との関係の和解の回復を成し遂げられました。すでにイエス様を信じるクリスチャンは、そのイエス様を人々に証しすることによって、真の平和をつくる者となるのです。