2013.2.10礼拝メッセージ要旨(マタイ13:24~43)   

二つのテーマで学びましょう。
①良い種と毒麦…天の神様は、この地上に良い種であるみことばを蒔かれました。しかし、一方で、悪魔が毒麦である悪い種をこの世界にまき散らしました。実際に、テロや極悪犯罪のニュースが世界中で起こっています。そういった総合的な視点による見方と、もう一つ、教会内部に蒔かれた毒麦というとらえ方もあります。折角、救いに与っても悪魔の毒牙によって、再び悪魔の支配下に陥る可能性も否定できません。最近、スポーツの現場での体罰問題などがニュースで聞かれます。様々な状況下で一概に論評できませんが、基本的には、どこかで、人を人とも思わなくなってしまったことが原因となったと思います。互いに相手を大切に思い、尊敬し合う。聖書から教えられているはずの私たちも、そういった本来あるべき姿を見失うことがないよう注意しなければなりません。
②からし種とパン種…からし種は本当に小さな種ですが生長すると空の鳥が巣を作るほどに大きくなります。神の民も同じで、一見、弱く小さな群れのようですが、その影響力は決して小さくありません。むしろ、人の役に立ち、人々に永遠の救いをもたらす福音を携えています。パン種もパンを大きくふくらませます。イエス様を信じる神の民は、家庭、学校、職場、社会に大きな影響力を持っているということを覚えましょう。

2013.2.3礼拝メッセージ要旨(マタイ13:1~23)   

 イエス様は多くのことをたとえでお話しされましたが、それは悟る人がさらに悟り、悟らない人には悟らせないためであると、そういう意味のことを言われました。きょうは、四つの種のたとえから、ポイントを四つあげて学びましょう。
 ①道ばたに落ちた種…このたとえでは、みことばを聞いても悟らない人のことを言ってますが、その前に、「信仰は聞くことから始まる(ローマ10:17)」とありますから、まず大事なことは、私たちがみことばを聞く環境に自分を置くということです。
 ②岩地に落ちた種…このたとえは、困難や迫害に対してすぐにつまずいてしまう人のことを言っています。丈夫な植物の根が深くしっかり地中に生やしているように、私たちも信仰の根を下に張り、上に実を結び(イザヤ37:31)ましょう。
 ③いばらの中に落ちた種…この世の心遣いと富の惑わしに注意しましょう。ある程度の健全な趣味などは却って益になるものですが、この世のどんな莫大な財産であっても、やがてキリストとともに相続する天の富に比べたら無に等しいと言わざるを得ません。
 ④良い地に落ちた種…アブラハムの息子であり、ヤコブの父であるイサクは、ある年に種を蒔くと百倍の収穫を見ました(創世記26:12)。イサクの生涯を見るとき、彼は従順で、争いを好まず、欲張ることはせず、その分、主が彼を祝福してくださったのです。主は生きておられます。みことばを聞いて悟る者となりましょう。

 2013.1.27礼拝メッセージ要旨(マタイ12:38~50)   

 ①ヨナのしるし…イエス様に「先生。しるしを見せてください。」という者がいました。イエス様は「ヨナのしるしのほかにしるしは与えられません。」と言われ、その願いを拒まれました。公生涯を始められるとき、イエス様は悪魔の試みを受けられました。そのとき、悪魔が「石をパンに変えなさい。」と言うと、イエス様はそれを拒まれたことを思い出します。結局、しるしや奇跡をゲーム感覚で求める人は、しるしや奇跡を見ても、決して主を崇めようとはしないでしょう。ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いました。それはイエス様の十字架を暗示しています。その後、ヨナはニネベに行って説教すると、ニネベの人々は悔い改めました。また、シェバの女王はソロモンの知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たのです。主は、今日も、神のことばを慕い求め、神のことばに反応し、自分を変え、キリストに似た者になる人を求めておられます。
 ②汚れた霊…聖書は悪魔の存在を明記し、人間にとって最も厄介な存在であることを示しています。私たちは、その悪魔、悪霊の存在を常に意識し、その悪い影響を受けないために、イエス様の御名によって聖霊に満たされることを求めることが肝要です。
 ③わたし(イエス様)の母、兄弟、…母マリヤを特別視し、イエス様と同等に扱うことは明らかに間違いです。確かにマリヤは特別に選ばれた素晴らしい女性ですが、神の器として用いられたに過ぎません。血筋とか家柄とかというよりも、その人が神のみこころを行なうかどうかが大事なのです。

 2013.1.20礼拝メッセージ要旨(マタイ12:15~37)   

①「公義を勝利に導くまでは」…当時イエス様は、ついてきた人々の病をみな癒してあげました。今日の教会にも二千年前と同じイエス様が聖霊によって働いておられますから、同じことが起こってもおかしくありません。しかし、よく考えてみますと、私たちは、何より、イエス様によってまことのいのちが与えられ、平安と真の希望が与えられ、大方、健康にも恵まれています。確かに、主はご自分の聖徒を特別に扱ってくださる(詩篇4:3)のです。くすぶる燈心のように、弱い葦のような私たちですが、天に凱旋するその時までイエス様がしっかり守っていてくださいます。
②イエス様と共に集める…当時パリサイ人たちはイエス様の言動に対してことごとく揚げ足取りをしました。今日、教会はキリストのからだであり、そのかしらはイエス様で、イエス様のいのちに満ちた有機的共同体でもあります。イエス様は、信じる私たちに力を帯びさせて(イザヤ45:5)、キリストのからだなる教会を建て上げるために召されています。ですから、イエス様とともに集めましょう。
③あなたのことばによる…イエス・キリストを信じる信仰の告白によって永遠のいのちを得ることができますし、拒むならば、得ることはできません。ですから、私たちの語ることばは非常に重い結果が伴ってくるのです。自分自身も生かされ、周りの人々も生かされ、また日本のリバイバルにつながるような信仰のことばを語りましょう。今後、私たちが祝福されるか否か、それは私たちの舌(語ることば)にかかっていると言っても過言ではありません。

2013.1.13礼拝メッセージ要旨(マタイ12:1~14) 

 ①「人の子は安息日の主」…創造主である神は六日かけてこの世界と万物を創造し、七日目になさっていたすべてのわざを休まれ、この日を聖であるとされました。それ以来、今日、世界中で、六日働いて七日目は休むという聖書の教えが定着しています。十戒においては第四戒において「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とありますが、非常に重要な戒めです。七日に一度体を休めて神を礼拝するということは、人間にとっては大きな祝福の源となります。

②安息日の曲解…さて、安息日をあまりに特別な日として位置づけ、却って生活するのに窮屈にしてしまった人たちがいました。イエス様は、安息日だから空腹でも穂を摘んではいけないとか、安息日は病を癒やしてはいけないというパリサイ人の言葉を退けられました。安息日に限らず、どんなことでも、その本来の目的や原点を見失うと途方もない結果を見ることになります。
③土曜日と日曜日…旧約時代の安息日は土曜日、現在のクリスチャンは日曜日をその日にあてています。それは、イエス様が日曜日に復活されたこと、また、使徒の働き20:7、第一コリント16:2を見ますと、初代教会の時から日曜日が礼拝の日として定着したようです。
④安息日の祝福…イザヤ58:13~14には、安息日の過ごし方が記されています。今日のクリスチャン向けに言い換えるなら、「日曜日を重んじて、この日を喜びの日として、礼拝を守り、我欲を慎むなら、主はその人を祝福され、この地上でも大いに恵みを受け、たとい世を去っても今度は永遠のいのちの祝福が待っています。」

2013.1.6礼拝メッセージ要旨(マタイ11:16~30)   

①「この時代」…イエス様はおもにガリラヤ湖周辺を活動の拠点とされていました。しかし、当時、イエス様が行われた数多くのしるしや不思議を見ながら、神に立ち返る人はわずかでした。現在の日本の国のことを考えてみましょう。世界的に見ても、日本のクリスチャン人口は僅少です。ここ何十年も日本のリバイバルが期待され叫ばれてきましたが、それらしき事は起こりませんでした。そういう中で東日本大震災が起こりました。爆発的ではありませんが、震災前では決して見られなかったような不思議なわざが起こっていることも事実です。ですから、見方によっては、リバイバルが始まっているとも言えます。今、私たちは、そういう時代の中にあるということを見据えつつ、今後、どのように歩を進めるべきか主に尋ね求めてまいりましょう。
②「幼子たちに現わしてくださった」…ここで言う幼子とは、イエス様のことばを素直に受け入れる人のことです。創世記(22章)で、アブラハムは、神から、自分の一人子イサクをささげるように命じられたとき、神を疑うことはせず、正に幼子のように主を信頼してそうしたのです。幼子のようにイエス様を信頼し、従う人が祝福を受けるのです。
③「わたしのところに来なさい」…私たちは誰でも無条件でイエス様から招きをうけています。はばかることなくイエス様のもとに行き、安らぎを得ましょう。そして、次に、イエス様と共にくびきを負って歩みましょう。それは、神からそれぞれに与えられた使命に生きることでもあるのですが、それは却って最も幸いな歩み方なのです。

 2012.12.30礼拝メッセージ要旨(マタイ11:1~15)   

①「つまずかない者は幸い」…イエス様にバプテスマを授けたヨハネがなぜイエス様につまずいたのでしょう。獄中にいるヨハネを助けに来ないなど、イエス様がヨハネの思い通りに行動しないというのが、その理由かもしれません。でも、それはヨハネの勝手な思い込みであり、天の神のご計画に基づいた考えではありません。私たちの信仰の土台は、神ご自身であり、イエス様です。信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さない(ヘブル12:2)でいましょう。
②「最もすぐれた人ヨハネ」…イエス様につまずいたのは別にして、ヨハネほど禁欲的で高潔な人はいないでしょう。私たちもヨハネのようになれるなら、それはそれで素晴らしいことですが、ここで、間違えてはいけないのは、イエス様を信じる信仰は、人間として高くなることではなく、むしろ、低くなってイエス様に助けていただくことです。パウロも「キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12:9)」と言っています。
③「天の御国を激しく攻める」…ノアの時代の大洪水があったとき、地には悪が満ち、もうどうにもならない状態だったのです。また、ソドムとゴモラの悪もノアの時代以上にひどく、神が介入せざるを得なかったのです。マラキ4:5~6には終末のさばきの前にエリヤを遣わすと言っています。それは、バプテスマのヨハネの道備えとイエス様の救いであり、今は、恵の時、救いの機会が与えられているのです。このとき、私たちは、神を求めるときでもあるのです。請われて求めるのではなく、自ら進んで求めることを主はどれほど喜ばれるのでしょうか。

2012.12.23礼拝メッセージ要旨(イザヤ9:6)   

「みどりご」とは、三歳くらいまでの幼児を言い、語源的には、そのまま緑の子、すなわち、若葉や新芽のような子という意味のようです。ひとりのみどりごが乙女マリヤより生まれるという預言がイザヤによって、またミカによってベツレヘムに生まれるという預言がそれぞれBC700年ほどにされていました。さて、このみどりごであるイエス様は、天の神のみもとから来られた神ご自身であり、天においても地においてもいっさいの権威をお持ちでした。また不思議な助言者と呼ばれるのは、イエス様の名によって与えられる聖霊のことです。この聖霊様が共におられるなら、私たちは何をすべきか、また、何をしてはいけないか教えられます。また、力ある神とも呼ばれ、イエス様は圧倒的な力を現されました。今日、イエス様を信じる者には神の力と愛と慎みの霊が与えられます。そして、永遠の父とも呼ばれます。モーセがホレブの山で神に出会ったとき、その名を尋ねると「わたしは『わたしはある』という者である」と言われました。それは永遠に存在するということで、私たちもイエス様によって永遠のいのちに与(あずか)るのです。最後に「平和の君」です。アダムとエバの子孫である私たちは生まれながら罪人であり、聖なる神の怒りの下に置かれています。しかし、イエス様が十字架により和解の務めを成し遂げられ、今日、私たちはイエス様によって神と和解し、心に平和(平安)が与えられるのです。

2012.12.16礼拝メッセージ要旨(マタイ10:34~42)   

①どこの国であれ平和であることを求めます。社会も家庭も平和であることを望みます。天の神様ご自身もこの地が平和であることを願っています。しかし、ここでイエス様は、「平和をもたらすために来たのではない」と言っています。例えば、家族の中で一人イエス様を信じると、そこには、霊的な分離が起こります。場合によっては家族からの激しい迫害を受ける場合もあるでしょう。そのとき、家族かイエス様か、優先順位を迫られます。イエス様を第一にするなら、家族の中に真の祝福をもたらすことになり、却って家族を愛することにつながるのです。
②人にはおのおの負うべき自分自身の重荷があります(ガラテヤ6:5)。私たち一人一人は世界でたった一人の特別な存在です。決して人真似などする必要はないし、自分自身を生きればよいのです。しかし、そうかと言って、自分の我欲のために生きるのではなく、主にあって生きる、つまり、イエス様のために自分に与えられた使命(十字架を負って)に生きるのです。
③震災後、当教会は多くの諸教会、諸団体、あるいは個人などよりあつい支援を受けました。それは、同じイエス様を信じる者として、ただそれだけのゆえにです。それらの方々に豊かな報いがあるようにと祈らされます。また、私たち自身も他の人々を助ける者となりましょう。水一杯でも報いに漏れることはありません。

 2012.12.12祈祷会メッセージ要旨(詩篇106篇)   

6節から48節まで、出エジプトからカナンの地へ、やがて、他国の侵略によって捕囚となり、そこからの帰還など、イスラエルの歴史を大まかに回想しています。その中で記者が中心的に指摘していることは、イスラエル人の不信仰です。象徴的な箇所は、12節と13節の間にあるギャップです。12節で、葦の海を渡るという素晴らしい奇跡を目の当たりにしたイスラエルは、みことばを信じ、主への賛美を歌ったものの、続く13節では、エジプトで食べていた肉、魚、野菜などを食べたいという激しい欲望から、すぐに神のみわざを忘れてしまい、神を試みてしまったのです。そういった不信仰を繰り返すことによって、最終的に待ち受けていたものは、バビロン捕囚でした。しかし、主は憐れみ深い方です。イスラエル人の叫びを聞き、彼らを再び元の地に帰還させようとされるのです。この詩篇の結論は1~3節にあると言えるでしょう。主に感謝し(1節)、主の大能のわざを語り、ふれ知らせ(2節)、正義を常に行なう(3節)、ということです。このことはイスラエル人だけの問題ではなく、今日のキリスト者である私たちの問題でもあります。たとい逆境のときであってもつぶやくことなく主を信頼し、主に感謝と賛美をささげ、主の時を待ち望みましょう。そして、機会を生かして福音を証しし、良い行ないを実行していきましょう。