2012.12.23礼拝メッセージ要旨(イザヤ9:6)   

「みどりご」とは、三歳くらいまでの幼児を言い、語源的には、そのまま緑の子、すなわち、若葉や新芽のような子という意味のようです。ひとりのみどりごが乙女マリヤより生まれるという預言がイザヤによって、またミカによってベツレヘムに生まれるという預言がそれぞれBC700年ほどにされていました。さて、このみどりごであるイエス様は、天の神のみもとから来られた神ご自身であり、天においても地においてもいっさいの権威をお持ちでした。また不思議な助言者と呼ばれるのは、イエス様の名によって与えられる聖霊のことです。この聖霊様が共におられるなら、私たちは何をすべきか、また、何をしてはいけないか教えられます。また、力ある神とも呼ばれ、イエス様は圧倒的な力を現されました。今日、イエス様を信じる者には神の力と愛と慎みの霊が与えられます。そして、永遠の父とも呼ばれます。モーセがホレブの山で神に出会ったとき、その名を尋ねると「わたしは『わたしはある』という者である」と言われました。それは永遠に存在するということで、私たちもイエス様によって永遠のいのちに与(あずか)るのです。最後に「平和の君」です。アダムとエバの子孫である私たちは生まれながら罪人であり、聖なる神の怒りの下に置かれています。しかし、イエス様が十字架により和解の務めを成し遂げられ、今日、私たちはイエス様によって神と和解し、心に平和(平安)が与えられるのです。

2012.12.16礼拝メッセージ要旨(マタイ10:34~42)   

①どこの国であれ平和であることを求めます。社会も家庭も平和であることを望みます。天の神様ご自身もこの地が平和であることを願っています。しかし、ここでイエス様は、「平和をもたらすために来たのではない」と言っています。例えば、家族の中で一人イエス様を信じると、そこには、霊的な分離が起こります。場合によっては家族からの激しい迫害を受ける場合もあるでしょう。そのとき、家族かイエス様か、優先順位を迫られます。イエス様を第一にするなら、家族の中に真の祝福をもたらすことになり、却って家族を愛することにつながるのです。
②人にはおのおの負うべき自分自身の重荷があります(ガラテヤ6:5)。私たち一人一人は世界でたった一人の特別な存在です。決して人真似などする必要はないし、自分自身を生きればよいのです。しかし、そうかと言って、自分の我欲のために生きるのではなく、主にあって生きる、つまり、イエス様のために自分に与えられた使命(十字架を負って)に生きるのです。
③震災後、当教会は多くの諸教会、諸団体、あるいは個人などよりあつい支援を受けました。それは、同じイエス様を信じる者として、ただそれだけのゆえにです。それらの方々に豊かな報いがあるようにと祈らされます。また、私たち自身も他の人々を助ける者となりましょう。水一杯でも報いに漏れることはありません。

 2012.12.12祈祷会メッセージ要旨(詩篇106篇)   

6節から48節まで、出エジプトからカナンの地へ、やがて、他国の侵略によって捕囚となり、そこからの帰還など、イスラエルの歴史を大まかに回想しています。その中で記者が中心的に指摘していることは、イスラエル人の不信仰です。象徴的な箇所は、12節と13節の間にあるギャップです。12節で、葦の海を渡るという素晴らしい奇跡を目の当たりにしたイスラエルは、みことばを信じ、主への賛美を歌ったものの、続く13節では、エジプトで食べていた肉、魚、野菜などを食べたいという激しい欲望から、すぐに神のみわざを忘れてしまい、神を試みてしまったのです。そういった不信仰を繰り返すことによって、最終的に待ち受けていたものは、バビロン捕囚でした。しかし、主は憐れみ深い方です。イスラエル人の叫びを聞き、彼らを再び元の地に帰還させようとされるのです。この詩篇の結論は1~3節にあると言えるでしょう。主に感謝し(1節)、主の大能のわざを語り、ふれ知らせ(2節)、正義を常に行なう(3節)、ということです。このことはイスラエル人だけの問題ではなく、今日のキリスト者である私たちの問題でもあります。たとい逆境のときであってもつぶやくことなく主を信頼し、主に感謝と賛美をささげ、主の時を待ち望みましょう。そして、機会を生かして福音を証しし、良い行ないを実行していきましょう。

2012.12.2 礼拝メッセージ要旨(マタイ10:16~33)   

①16節の「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」とは、善に対しては鳩のように素直に受け入れ、悪に対しては蛇のように警戒せよ、ということでしょう。聖書のみことばほど善と言えるものは他にないのではありませんか。教会で説教を聞くとき、聖書を読むときなど、みことばを受け入れましょう。みことばに素直な人は成長し、祝福されます。
②19節で「何を話そうか心配しなくてよい」とあります。使徒の働き3~4章には、福音宣教後、早速、ペテロとヨハネが迫害を受け、民の指導者たちの前で尋問を受けています。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、力強く証し、御霊の力によって語りました。この私たちの時代においても、今後、どのような時が来るか分かりませんが、心配無用、聖霊にお委ねするのが一番です。そのためにも、聖霊に満たされることを求めましょう。
③28節には「たましいを滅ぼすことのできる方を恐れるべき」とあります。私たちは、どうしても目に見える人間を必要以上に恐れてしまう傾向にあります。しかし、「人を恐れるとワナにかかる。主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)」とあるとおりです。
④30節には「頭の毛も数えられている。」とあります。私たち人間は創造主である神様に形造られ愛されています。また、聖徒は特別に守られるのです。あれやこれや先々のことを心配するのを止め、むしろ、主に信頼して期待しましょう。
⑤32節には「わたし(イエス様)を人の前で認めるべき」とあります。ペテロは使徒3~4章では大胆にイエス様を証ししていますが、かつてイエス様が捕らえられたとき、大祭司の中庭で鶏が鳴く前に三度もイエス様を「知らない」と言うほど弱い人だったのです。ですから、私たちも今は弱くても未熟だとしてもそれでよいのです。主に拠り頼みながら、これから成長していけばよいのです。

2012.11.25礼拝メッセージ要旨(マタイ10:1~15)   

①1~4節は12使徒の任命です。選民であるイスラエルも12部族で、12という数字は聖書では「選び」という意味を持つようです。ヨハネ15:16でイエス様は「わたしがあなたがたを選び、任命した」とありますが、私たちも不思議な神の摂理により選ばれてここにいるのです。しかし、12使徒の場合はイスカリオテ・ユダ、イスラエル12部族ではダン部族(黙示録7:4~8)が脱落しています。ですから、選ばれたことを感謝しつつ忠実に主に仕えてまいりましょう。
②さて、このときイエス様は12使徒に異邦人の道に行くなと言っています。もちろん、このときはイエス様が十字架におかかりになる前で、まだ異邦人の時ではありませんでした。今日の世界宣教の突破口を開いたのはパウロです。最終的には多くのイスラエル人が救われる時が来るのでしょうが、今は異邦人の時です。
③7~8節を見ますと、使徒たちが遣わされる目的が記されています。今日、クリスチャンは皆、万人祭司としての使命を授けられています。人々に福音を宣べ伝え、イエス様の御名の権威によって病んでいる人のために祈るとき、そこに神の栄光が現れるのです。
④9~10節では、神に遣わされた者には経済的必要も満たされるという約束が記されています。
⑤11~15節では、福音を伝えるときの原則が記されています。「平安を祈るあいさつ」と表現されていますが、それを受け入れる人には祝福が及び、拒めば、発信元の本人に返ってくるのです。ですから、私たちは、福音、あるいは福音に関する祝福のことばを回りの方々に伝えていきましょう。

2012.11.18礼拝メッセージ要旨(マタイ9:27~38)   

「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫び求める二人の盲人に対してイエス様は「わたしにそんなことができると信じるのか。」と問われ、盲人たちが「そうです。主よ。」と答えて、ようやくイエス様が「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われて、二人の目をあけておやりになりました。このとき、イエス様が「そんなことができるのか」と問われたのは、彼らがイエス様を単なるダビデ王の再来と見ているのか、それとも永遠の救い主と信じるのか、そのことを明らかにしたということでしょう。私たちも「イエス様にはどんなこともできる」という信仰を持ち、イエス様に期待して過ごしましょう。次に、口のきけない人がイエス様によって、ものを言うようになると、それを見たパリサイ人たちは「悪霊の力による」と言いました。彼らは正に聖霊に逆らう発言をしました。今日、私たちも、主の働きに対して、こういった誤った評価を下すことがないように気をつけねばなりません。さて、当時イエス様がなさっていた主なこと三つが記されています。①会堂で教え②福音を宣べ伝え③あらゆる病気わずらいを直された、です。このことは、今日の教会の使命でもあります。特に③は、意外と大切で、例えば、人の悩みを聞く、それだけでも大きな働きです。この章の最後で、イエス様は霊的に弱り果てている群衆を見て、「収穫は多い。」と言われました。我が国日本の99%以上の人々は聖書のみことばから離れた生活をし、正に霊的には弱り果てていると言えます。しかし、だからこそ、「収穫は多い」と期待できるのではないでしょうか。当教会で始まっている聖書学校は、その収穫のための働き人を整えるためです。リバイバルに備えてまいりましょう。

2012.11.11礼拝メッセージ要旨(マタイ9:18~26)   

「信仰」というテーマです。12年間長血を患った女性がイエス様の着物のふさに触りました。このふさは、民数記15:38~39によると、主の命令(みことば)を守るということを、それを見て思い起こすために着物に着けていました。今日、私たちも、みことばが書かれた額を部屋に飾ったりして、いつもみことばが目に触れるようにしたらよいでしょう。私たち人間は強くありません。そういったみことばに自然に触れるような環境づくりも大事なのです。さて、その長血を患った女性は、イエス様のお着物に触ればきっと直ると心の内で考えていたのですが、別の福音書によると彼女は「きっと直る」と心の中で言っていたのです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ10:10)」とある通りです。イエス様が神のもとから来られた方であり、病を癒すことのできる方であるという、そういう信仰を持っていたのです。もちろんイエス様の名で祈れば何でもきかれるわけではありません。しかし、神のみこころにかなう願いをすれば、必ず祈りがきかれるという信仰を持って、実際に自分で祈ったり、祈ってもらったりする、その信仰が大事なのです。さて、イエス様は、いよいよ会堂管理者の家に到着します。イエス様が「娘が死んだのではなく眠っている」と言うと、そこにいた者たちは嘲笑いました。そこでイエス様は、そういった不信仰な者たちを外に出し、娘の両親とお弟子たちだけを家の中に入らせ、死んだ娘を生き返らせました。私たちもイエス様に対して不信仰であるなら、せっかく奇跡が起きようとしているのに、それがとどめられるということがあるでしょう。主のみ働きの妨げとならないように、主が私たちの祈りにこたえてくださることを信じましょう。

2012.11.4礼拝メッセージ要旨(マタイ9:9~17)   

三つの内容から三つのポイントで学びましょう。第一のポイントは「わたしについて来なさい。」です。収税所にすわっていたマタイは、イエス様に目を留められ、「ついて来なさい。」と言われ、イエス様に従いました。このマタイは、マタイの福音書の著者であるとされていて、別の福音書によると、本名はレビです。マタイは、ローマ帝国下にある取税人の仕事に対して悩んでいたのかもしれません。そういう中で思い切った決断をしたものです。マタイのように直接イエス様にお声掛けをいただけるならば決断もしやすいかもしれません。しかし、実際的に、私たちが、人生においての様々な場面で決断を迫られるとき、どのように神の導きを知ることができるのでしょう。やはり、それには、祈り深くあり、タイミングや状況を通して、聖霊のみ声を聞き分けるということです。そして、信仰によって行動し、聖書のみことばに従うことです。第二は、「罪人を招くために来た」です。イエス様と共に食事をしていた取税人や罪人たちを見て、パリサイ人は自分たちこそ正しい者であると思っていました。しかし、イエス様は、表面的な見栄えではなく、神の前に砕かれた悔いた心を持っているかどうかということに目を留められるのです。第三のポイントは、「新しい皮袋」です。今は、イエス様の十字架の救いによる新しい契約の時代の中にあります。イエス様を信じた人の内には聖霊様が宿っています。その人は、その聖霊様のみ思いに合った考え方、生き方を求められています。自分の考えを一方的に人に押し付けてしまうようなことをせず、聖霊様に教えられて、その人その人の心情や状況をよく汲み取って臨機応変に対応すべきです。

2012.10.28礼拝メッセージ要旨(マタイ9:1~8)   

イエス様一行が、向こう岸からご自分の町に帰ってくると、中風の人が床のままイエス様の前に運ばれて来ました。そこで起こった出来事から、二つポイントをあげて学びましょう。第一のポイントは「イエスは彼らの信仰を見て」です。マルコの福音書では、この中風の人は四人にかつがれて来たものの、群衆で家の中に入れず、そのため屋根に穴を開けて床のまま吊り降ろされたと記されています。他人の家の屋根を壊すことは別にして、そこまでする信仰に対して、イエス様がよしとされました。イエス様に対する信仰が、そのような行動となって表われました。ヤコブ1:22には「信仰は行ないによって全うされる」とあります。第二のポイントは、「罪を赦す権威」です。全能の神の前における「罪の赦し」という概念は分かりにくいかと思いますが、ちょうど人と人との関係と同じように、人と神との和解の関係が成立したとき、それを罪の赦しと言えるかと思います。イエス様が、その中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われたとき、側にいた律法学者が「罪を赦すことのできるのは神以外にない。」と心で思っていました。それを読み取られたイエス様は、中風の人を癒し、立ち上がらせて、ご自分が罪を赦す権威をもっておられることを明らかにされました。イエス様は二千年前、十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。(ルカ23:34)」と、ご自分を十字架につけたローマ兵のためにも祈られました。今日、私たちもイエス様によって、神と和解し、罪の赦しを得、あの中風の人をイエス様のもとへ運んだ四人の友のように、友人、知人、家族をイエス様のところへ、お連れしましょう。

2012.10.14礼拝メッセージ要旨(マタイ8:1~17)

この箇所では三人がイエス様によって病のいやしを受けています。まず、ツァラアトに冒された人です。この人は直る見込みがなく絶望状態だったことでしょう。皮膚系の病気で感染を恐れ、誰も彼に近づくことさえしなかったでしょう。イエス様そんな彼にあえて手を伸ばしてさわっていやしのわざを行われました。そして、「祭司に見せなさい。」と言っておられますが、当時、祭司は今日のお医者さんのような役目を果していて、実際のいやしとともに、祭司によって「いやされた」という公的な宣言がされるためでした。
次に、百人隊長のしもべのいやしです。異邦人であるローマの軍人は「ただ、おことばをください。そうすればしもべは直ります。」と、イエス様も驚かれるほどの素晴らしい信仰を表しました。イエス様が「あなたの信じた通りになるように。」と言われたその時に、しもべはいやされました。
もう一人はペテロのしゅうとめです。彼女は熱病で床についていたのですが、イエス様が手に触られるとたちどころにいやされ、なんとすぐに起きてイエス様をもてなし始められたのです。以上、いやされた三人の共通点を探すとすれば、立場の違いはあれ、それぞれ弱さを持つ人たちで、そこに、本人及び関わる人のイエス様に対する信仰がありました。
箴言3:5~8を見ますと、私たちが真の神を信じ、この方により頼み、自分の悟りに頼らず、どこにおいても主を認め、主を恐れて悪から離れるなら、健康が与えられ、骨に元気がつくと約束しています。つまり、大事なのは私たちの心です。力の限り見張って、自分の心を見守るなら、いのちの泉がそこからわいてくるのです(箴言4:23)。