2012.10.7礼拝メッセージ要旨(マタイ7:24~29)

岩の上に建てた家と砂の上に建てた家のたとえです。大嵐が来たとき、岩の上に建てた家は倒れなかったけれども、砂の上に建てた家は倒れました。ここでイエス様は、岩の上に家を建てた賢い人は、イエス様が語られた教えを聞いて行なう人に比べることができると言われました。イエス様の教えとは、聖書全体であるとも言えますが、直接的にはマタイ5章3節から7章23節までのみことばです。みことばを聞いて行なうということが、その人の人生にとっての土台になるということを具体的に理解しやすいように、5章、6章、7章から一節づつ取り上げます。
5章は44節です。「~自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」、やられたらやり返せというのがこの世の常識でしょうが、イエス様の教えは敵を愛し祈るということです。当のイエス様ご自身も十字架でそれを実践されました。そのイエス様の姿勢に倣うとすれば、日常における些細な事など問題ではなくなります。
次に、6章では、33節の「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」です。キリスト者が最も喜びとすべきは「自分の名が天のいのちの書に書き記されていること(ルカ10:20)」です。現時点での日本人口は1億2752万人で、そのうちクリスチャンはおよそ50万人いるかいないか、つまり、0.4%で、私たちはこの現状打開のために祈り、福音を証ししなければなりません。
最後に7章では12節です。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」とあります。このみことばは黄金律とも言われていて、私たちが人生を生き抜く上での知恵と言いましょうか、処世訓とも言えそうです。常に相手の立場に立って物事を考えていくことによって、事がうまく運び、その人を成功に導くのです。以上、みことばを3節だけ選びましたが、イエス様のすべてのみことばが私たちの人生の、また信仰の土台となります。まず、毎日コツコツ聖書を忠実に読みましょう。

2012.9.30礼拝メッセージ要旨(マタイ7:13~23)

三つの内容から、三つのポイントで学びましょう。
第一のポイントは「せまい門から入る」です。我が国日本は和の国とも言われ、和を重んじ、人との協調、また、長いものには巻かれろということわざもあるように、自己主張しないで、奥ゆかしくあるべきという風潮があります。もちろんそれは良い面もあるのですが、何でもかんでも人と協調していればよいというものではありません。やはり、私たちは何をするのにも、自分でちゃんと考えて、それは本当に正しいことかどうかを見極めた上でなければなりません。そのとき、基準となるのは、この天地を創造し、私たちに命を与えているお方のみことば、すなわち聖書です。その際、聖書のことばに従う人はわずかかもしれません。自分一人だけかもしれません。広い門は楽かもしれませんが行き着く先は滅びです。どんなに狭くても、いのちに至る門から入りましょう。
第二のポイントは、「偽預言者を見分ける」です。本物か偽物か、見分けるのは意外に難しいことはありません。何の木か分からないとき、その結ぶ実によって見分けるように、その人物の生活とか結末を見るということです。最近の日中、日韓関係の領土問題を背景として、ある作家は「ヒトラーの結末がどうなったのか政治家はよく考えてほしい。」と言っています。終末における偽預言者、そして偽キリストに騙されないようにしましょう。
第三のポイントは、「神のみこころを行なう」です。マタイ25:32~54には羊と山羊を分けるように最後の審判がされるということが記されています。見た目に派手な働きをしたかどうかではなく、その時その場所で、私たちが神様のみこころに従ったかどうかが問われるのです。

2012.9.26祈祷会メッセージ要旨(詩篇95篇)

前半の1~6節は、当教会の礼拝の招詞で時々読まれます。前半は神への賛美、後半は一転して警告としての内容です。出エジプトしたイスラエル人は、あの紅海において、不思議な神の奇跡を見ました。それが出エジプト記14章に記されていて、さらに、16章ではマナとうずらが空から降ってきます。ところが同じ出エジプト記17章に入ると、「水がない」と言って、イスラエル人はつぶやくのです。神様の立場から見ると、紅海の奇跡、そして、マナとうずら、これだけの奇跡を見ていながら、少しだけ渇くと、「水がない」と言ってつぶやくのです。これでは神様もあきれてしまいます。詩篇95:7~8で「きょう、もし御声を聞くなら~心をかたくなにしてはならない。」と言っています。不信仰にならないで、神を信じ、神のみことばに聞き従いなさい、ということです。

さて、この詩篇95篇はヘブル3章にも引用されています。やはり、不信仰になって、神のことばに対して心をかたくなにしてはならない、ということが記されています。9月23日の礼拝では中澤啓介師が、ヘブル2章から「人間とは何者なのか」というメッセージをしてくださり、午後の聖書学校では「見落とされていた福音の中心」という題で語られ、最終的にその答えは第一ペテロ2:9及び黙示録1:6にあるということでした。つまり、イエス様を信じた私たちは、この地上において使命が与えられていて、神の御子イエス様と一つになって王なる祭司として仕えるということです。そのためにも、不信仰に陥ることなく、確信と希望を持って、忠実に主に仕えてまいりましょう。最後に、ヘブル3:6を読みましょう。「しかし、キリストは神の御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」

2012.9.16礼拝メッセージ要旨(マタイ7:1~12)

第一のポイントは、「さばいてはいけません」です。ここで混同してはならないのは、この世で行われている警察官や裁判官による裁きは別です。また、一つの組織体であれば、組織の長は時に適切な裁きを下さねばならないこともあるでしょう。ここで「さばいてはいけない」とは、一般の人間関係の中で、いつまでも根に持って、その人を赦さないということです。天の神様は、私たちを赦すために御子イエス様を遣わし、十字架の救いを成し遂げられました。イエス様によって赦された者が人を赦さないと再び赦されない者となってしまいます。次に、赦された、神の子とされたからといって、完全になったような錯覚をして、人の欠点に目を留め、もっと大きな自分の欠点に気づかないようでも困ります。使徒パウロは自分を「罪人のかしら」であると第一テモテ1:15で言っています。イエス様による赦しと救いは完全ですが、赦された罪人に過ぎないということを忘れないようにしましょう。
第二のポイントは、「豚に真珠」です。ここで、豚と犬が出てきますが、動物のことを問題にしているのではなく、ある種の人間のことを言っているようです。世の中、善意の人ばかりではありません。蛇のようにさとく(マタイ10:16)あるべきで、うっかり足をすくわれるようなことがないように、冷静な判断力も必要です。
第三のポイントは、「もとめなさい」です。日本人の一般的な傾向として、遠慮深いということがあげられると思います。一面、良いことではあるのですが、天の神様に対しても遠慮深くて何も求めないとしたら、これは大きな損失です。主は私たちに求めなさい(マタイ7:7)、わたしを呼べ(エレミヤ33:3)、あなたの口を大きく開けよ(詩篇81:10)と言っておられます。また、私たちは、イエス様の名によって天の父に求め、その祈りが答えられるために選ばれたのです(ヨハネ15:16)。

2012.9.9礼拝メッセージ要旨(マタイ6:25~34)

第一のポイントは、「心配しない」です。この箇所には「心配」という言葉が6回も出てきます。もちろん、それは「心配しなくてもよい」という意味で使われているのですが、それだけ、私たち人間は心配をしてしまうということでしょう。ここでは、なぜ心配無用なのかという根拠が語られています。それは、創造主である神が人間を創造したのなら、神ご自身の側で私たち人間に対して責任を持ち、心配してくださるからです。確かに私たち人間が自分のことで心配したからと言って、少しでも寿命を延ばすことはできません。しかし、人間、「心配無用」と、頭では理解できたとしても、それでも心配してしまうものです。そこで、必要なことは、心配を主に委ねつつお祈りすることです(ピリピ4:6~7)。第二のポイントは、「労苦」です。34節には「労苦はその日、その日に十分あります」とあります。この「心配するな」という一連の箇所は、労苦するということを前提に記されています。使徒パウロも、その手紙の中で、自ら、労苦、奮闘を実践し、勤勉であることを奨励しています。第三は、「神の国とその義とをまず第一に求める」です。第一と第二のポイントのように、心配しないで勤勉な生活をしていればそれでよいかというと、そうではありません。最も大切な「人間何のために生きるのか」ということが定まっていません。「神の国とその義」、神の国とは、天国とか永遠のいのちでしょう。その義とは何でしょう。イエス様は、あるとき、律法学者の質問に答えて、大切な二つの戒めの話をされました。第一に、「神を愛する」、第二に「隣人を愛する」、聖書はこの二つの戒めにかかっていると言われました。結局、「永遠のいのち」は、自分だけでなく、隣人である周りの人々も得なくてはなりません。そのために生きる。神の国とその義を求めるとは、短く言い換えますと、神のみこころに叶った歩みをするということです。それぞれに与えられている神のみこころのうちを歩むならば、主は必要を満たしてくださると約束してくださっています。

2012.9.2礼拝メッセージ要旨(マタイ6:16~24)

第一のポイントは、「断食について」です。聖書では、断食について、比較的多く取り上げられています。イエス様は荒野で40日の断食をされました。個人的な断食はもちろん、民族全体で断食する場面がエステル記やヨナ書などに見られます。「この種のものは、祈りと断食によらなければ~(マタイ17:21)」とあり、当然、切なる祈りも必要なときがあるでしょう。いずれにしても、断食は人に見せるために行われるものではなく、主に対して行われるものです。第二は、「宝を天に蓄える」です。この世において集めたもの、蓄えたものは一時的なもので、結局、消えてなくなってしまいます。神のみこころに従って行なった行為のみがいつまでも残り、永遠の天に宝として蓄えられるのです。第三は、「からだのあかりは目」です。私たちの目、その心がどこを向いているかということが大切です。闇に向いていれば暗く、光に向いていれば明るいでしょう。どんな時も、いつも、光であるイエス様に心を向け続けるならば、主が最善に導いてくださるでしょう。第四は、「二人の主人に仕えることはできない」です。神か富かというとき、富は悪者扱いされやすいものですが、富そのものは悪ではなく、むしろ、富は、健全に用いられて主の栄光を表わすことができるなら素晴らしいものです。イエス・キリストの父なる神を主人として、その上で、この世の富が用いられるべきでしょう

2012.8.29祈祷会メッセージ要旨(詩篇92篇)

この詩篇92篇は、表題に「安息日のための賛歌」であるとあります。1~3節では、十弦の琴をもって主に賛美と感謝と真実を言い表すことは良い事だと言っています。5節には「主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。」とあり、それだからこそ、主は賛美されるにふさわしい方であるということです。7節では「悪者がたとい栄えたとしても、それは永遠に滅ぼされるためである」と、そういった内容のことをズバリと表現しています。そして、10~14節では、信仰者は、高く上げられ、新しい油を注がれ、神の大庭で栄え、年老いても実を実らせ、みずみずしくおい茂ると言っています。この詩篇の結論は、結局、1~3節に戻ります。どんな状況の中でも「主に感謝し、賛美をささげ、主の真実を言い表す。」こと、それこそ、真の信仰者のあるべき姿です。最近読んだある読み物には、「良くない出来事の中にも必ず良い側面があり、その肯定的な事柄に目を留めて強調することである。」とありました。また、「小さな勝利を経験する度にお祝いすることを習慣化しましょう。」とありました。正にそうです。主は偉大な方、その御計らいは深いのですから、つぶやいたら損ですね。いつも感謝と賛美を言い表しましょう。

2012.8.22祈祷会メッセージ要旨(詩篇91篇)

「みつばさのかげの~♪」というような賛美歌などはこの詩篇91篇4節のみことばから生まれているのではないかと思います。この詩篇には、イエス様が荒野で試みを受けたとき、あの悪魔が用いたみことばも11~12節にあります。もちろん、悪魔が勝手に、みことばの使い方を誤ったのですが。1節は「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」とありますが、1節から13節まで、創造主である全能の神を信じる信仰者には、特別な守りと助けがあるという約束を、表現を変えて何度も繰り返しています。
14節から16節を見ますとさらに素晴らしい約束があります。つまり、天の神様が、信仰者に対して、「助け出そう」、「高く上げよう」、「祈れば答えよう」、「誉れを与えよう」、「長いいのちで満ち足らせて、救いを見せよう」と言っておられます。主が私たちに多くの恵みと祝福で満ち足らせようとしておられます。しかし、そうなるためには一つのキーワードがあります。14節には「彼がわたしを愛しているから~」とあり、神を愛する人が祝福されるのです。そこで、神を愛するとはどういうことでしょう。ヨハネ14:15を見ますと、神様(イエス様)を愛する人はイエス様の戒めを守る人です。聖書のみことばをよく読み、それを実行する人です。もちろん、神様とよく交わり、聖霊のみ声を聞いて、聖霊様に従う人です。

2012.8.12礼拝メッセージ要旨(マタイ6:1~8)

三つのポイントをあげて学びましょう。第一のポイントは「隠れた施し」です。良いことをしたけれど、全く人に認められない、そういうことがあるものです。でも全能の神様はちゃんとご覧になっていて、却って、人に知られていない良い行ないや施しに対して報いてくださるのです。人に隠れた所で良い行ないをする、それがクリスチャンの品性にふさわしいものです。第二は、「祈りのスタイルです。」です。基本的に祈りは天の神様にささげられるものですから、神様と自分との個人的な祈りが大切です。しかし、集会の中とか何人かで集まって人前で祈りをすることもあり、案外、その人前での祈りできるようになることも信仰の成長に役立つものです。さて、祈るときのスタイルですが、こうでなければならないという特定のスタイルはありません。どんなスタイルで祈ってもよいでしょう。ただ、使徒20:36、21:5を見ますと、パウロらが「ひざまずいて」祈っています。ステパノも殉教するときひざまずいて祈っています。イエス様もオリーブ山のある場所でひざまずいて祈っています。第三は、「祈りの奥義」です。祈りも施しと同じように隠れたところで見ておられる天の神様にささげられなければなりません。まず、イエス様の御名によって、天の父なる神様に心を開き、神様を迎え入れ、そして、共に食事をするように(黙示録3:20)豊かな交わりをします。祈りは一方通行ではなく、神様の言われることを聞くということも大切です。もちろん、祈りは自分の願い事を言います。求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)とありますから、遠慮なく求めましょう。あなたの口を大きく開けよ。(詩篇81:10)ともありますから、神様の限界を自分で決めないで、むしろ神様のスケールに合わせて祈りましょう。

2012.8.5礼拝メッセージ要旨(マタイ5:33~48)

四つのポイントをあげて学びましょう。第一のポイントは「『はい』は『はい』とだけ言いなさい」です。ここで、イエス様は誓ってはいけないということよりも、果たすことのできない誓いや約束を軽々しくしてはいけないと言っているのでしょう。イエス様ご自身も決して誇張も偽りもない方で、真実な歩みを貫かれました。私たちはこのイエス様に倣ってまいりましょう。第二は、「2ミリオン行きなさい」です。何か頼まれたら、その頼まれた通りにするのが一般的です。ここでイエス様は頼まれた倍を行なえと言っています。現実的には、その精神を学び、実生活の中で相手の要求を超えた真心を示すということでしょう。第三は、「自分の敵を愛しなさい」です。このみことばが世界中で実行されたら決して争いも戦争も起こらないでしょう。私たちは、敵どころか味方とさえもうまくいかない場合もあります。先々週から先週にかけて私は台湾教会などを訪問させていただきました。現在、台湾では著しい教会成長が起こっています。その要因の一つは教会が一つになっていることです。一人の牧師さんが呼びかけて、まず集まってお茶飲みから始めたということです。関わるすべての人に関心を持ち、大切に思う。そこから、神のわざが始まるでしょう。第四は、「完全になりなさい」です。私たち人間は不完全で、誰でも弱さをもっているものです。しかし、パウロは第二コリント12:9で、神の力は弱さのうちに完全に現われると言っています。また、「完全になりなさい」というのは、成長しなさいという一面もあるでしょう。それぞれ、その人に与えられた使命があります。その使命に100%生きるという意味もあるでしょう。